51.愛する妹の為に
しばらくして、ベインダルが椅子から静かに立ち上がった。
銀色の髪が揺れ、冷ややかな蒼の瞳が、じっとエンデクラウスを見据える。
「――エンデクラウス。貴様の意見は、おおよそ理解した。……そろそろ、引き揚げるとしよう」
その声音は穏やかでありながら、どこか切迫したものを含んでいた。
「もう、お帰りになるのですか?」
エンデクラウスがわずかに眉を上げて問いかけると、ベインダルは静かに頷いた。
「悠長に構えていれば、王家の思惑に飲まれる。……急ぎ手を打たねば、スフィーラ王女との縁談が、既成事実となってしまうやもしれん。あの父は、圧に弱いのでな」
その一言に、ディーズベルダは思わず声を漏らした。
「お兄様……」
ベインダルは、ほんの少しだけ視線をやわらげ、静かにディーズベルダへと歩み寄った。
そして――
「そう、不安な顔をするな」
ぽん、と彼の手がディーズベルダの頭に優しく触れる。
「……お前を、この男から守ってやれなかったこと、すまなく思っている」
「えっ!? ちょ、ちょっとお兄様、それどういう意味!?」
予想外の言葉に、ディーズベルダは目を丸くして思わず詰め寄った。
だが、ベインダルはその問いには答えず、代わりにまっすぐ見つめ返しながら、短く尋ねる。
「……幸せか?」
「はい。……幸せですけど……」
正直にそう答えると、彼はようやく――ほんの、ほんのわずかに口元をゆるめた。
「――ならば、それでいい。……遅れたが、結婚おめでとう。ディーズベルダ」
貴族としての矜持と、兄としての照れ隠しを織り交ぜたその言葉に、ディーズベルダの胸がじんと熱くなる。
「……お兄様っ!」
感極まって声をかけると、ベインダルは彼女の隣にいるクラウディスにも目を向け、無言のまま、小さくその頭を撫でた。
クラウディスは「んー?」と小さな声を漏らし、くすぐったそうに笑う。
それにベインダルは、ひとつだけ短く息をついたあと、背を向けた。
「では、これで失礼する」
すっと扉へと歩き出すその背に、ディーズベルダが慌てて一礼する。
「お見送りいたします!」
エンデクラウスもそれに続き、静かに立ち上がる。
◇◆◇◆◇
魔王城の玄関ホール。
吹き抜けの広間に、甲高い叫び声が響き渡っていた。
「いーやーでーすーわーーー!! 絶対に帰りませんわーーーー!!!」
エンリセア・アルディシオン嬢が、石造りの柱に全身を貼りつけるようにしがみつき、絶賛・抵抗中だった。
ピンクのフリルが揺れ、ツインテールのリボンがぶんぶん振り回されるたびに、付き添いの騎士たちがたじろぐ。
「……まだ帰ってなかったのか」
エンデクラウスが額に手を当てて溜息をつく。
その隣で、ディーズベルダはぽつりと呟いた。
「すごいわ……」
しばしの沈黙――そのときだった。
静かに、だが確かな足音が玄関ホールに響いた。
「……っ!」
騎士たちが左右に道を空ける。その奥から姿を現したのは、まさかの――
「ベ、ベインダル様……!?」
まるで氷の彫刻のような、銀の髪に、凛とした横顔。 歩みは一分の隙もなく、整った軍靴の音がホールの石床を均等に打つ。
その姿がエンリセアの目前で止まった瞬間――彼は、少しだけ腰を屈め、視線を彼女の目線に合わせた。
「帰るぞ、エンリセア嬢」
低く静かな声。それなのに、芯の通った響きが耳に残る。
言葉に怒気はなかった。けれど――威圧感は、絶大だった。
「ベ、ベインダル様……っ」
エンリセアの頬が真っ赤に染まる。 けれどその瞳は、怯えるでもなく、むしろキラキラと輝いていた。
「……貴嬢を、アルディシオン公爵家までお送りいたします。丁度、用事もありましたので」
完璧な騎士のような所作で差し出された手に、エンリセアはきゅっと自分の手を重ねた。
そのまま彼女を伴い、歩き出すベインダル――
……と、その直前、彼はふと立ち止まり、ちらりとエンデクラウスに鋭い視線を投げた。
なにも言わない。だが、あまりに無言の圧がすごい。
(え、なに?なんで睨まれたの?)
ディーズベルダが目をぱちぱちと瞬いているうちに、玄関の扉が静かに閉まった。
ポツンと取り残された彼女は、きょとんとした顔のまま、エンデクラウスを振り返った。
「……どういうこと?」
「お義兄様は、ディズィが大好きだということですよ」
「え、いや、待って。なに?ちょっと、何がどうなって……?」
脳内でぐるぐると疑問符が渦を巻く。
「……いや、全くわけがわからないんですけど?」
「フフ。かわいいですね、ディズィ」
にこにこと楽しげに微笑むエンデクラウスの姿に、ぐらりと軽く眩暈がする。
(だめだ、この人……いつでも一枚上手……)
そして、あたかも何事もなかったかのように、エンデクラウスは話題を切り替えた。
「さて、明日はとうとう奥地の森林の伐採と、ランタンの設置作業が始まりますね」
「えっ、あ、えぇ……そうね。装置でランタンを錬成しなきゃ……」
思考が切り替わらないまま、ディーズベルダは反射的に返事をしてしまう。
(待って。頭が追いつかない。兄の怒り、スフィーラ王女の件、リセの告白、そしてランタン設置って……情報量が多すぎる!!)
が、隣のエンデクラウスは涼しい顔で、「では、図面を見直しておきましょうか」と、すでに作業モードに入っていた。
(……ほんと、マイペースな人……)
はぁ、と深くため息をついたディーズベルダは、それでもどこか安心したように、夫の背中を追って歩き出すのだった。




