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50.兄の悩み㊦

エンデクラウスは、手元のカップを一度傾け、紅茶をゆっくりと飲み干す。そして視線を窓辺に向けたまま、落ち着いた声で答える。


「難しい選択ですね……ですが、俺がお義兄様なら――“別の選択肢”を考えます」


ベインダルの青い瞳が、わずかに細められる。


「……別の?」


「ええ。まず一つ目は、スフィーラ王女に“どぎつい薬”でも盛って、傀儡としてそばに置くこと」


紅茶を置いた指先は、冗談でも言っているように軽やかだったが、言葉の裏にははっきりとした毒があった。


「もちろん、倫理的には最低ですが……あちらには、その手段を先に使われましたから。対等に立つためには、それも一つの方法かと」


「…………」


ベインダルは黙して聞いていたが、その頬にかすかに引きつった表情が浮かぶ。


「二つ目は――エンリセアと結婚すること。あれは盲目的ですから、適当に甘い言葉を囁いておけば、こちらに楯突くこともないでしょう」


エンデクラウスの言葉に、ディーズベルダは「ちょっと待って」と内心でツッコミを入れたが、今は割り込める空気ではなかった。


「毎晩、眠るのが少々遅くなるかもしれませんが……それ以外に支障はないはずです」


「………………」


ベインダルのこめかみが、ぴくりと動く。どうやら少し想像してしまったらしい。


「そして三つ目――これは俺にとって最も現実的だった選択肢です」


エンデクラウスは、ディーズベルダの方を一度ちらりと見やった。その紫の瞳に、彼女ははっと息をのむ。


「家出ですよ。全てを投げ捨てて、王都も、家も、立場も、家族も――ただ、守りたい人だけを連れて出る。そうすれば、煩わしい選択からはすべて解放されます」


「貴様……それを本気で言っているのか……?」


「ええ、実際に俺はそうしましたから。おかげさまで、こうして“最果ての荒れ地”で第二の人生を謳歌しています」


どこか飄々とした微笑み。 けれどその裏には、確かな覚悟がにじんでいた。


(この人……本当に、“アルディシオン公爵”というものを、捨てたものね。)


ディーズベルダは思わずエンデクラウスを見つめた。まるで大事な何かを、彼は最初から切り捨てると決めていたかのようだった。

ベインダルは、そんな義弟をじっと見つめていた。 静かに、じっくりと、まるで彼の本心を探るように。


「……馬鹿げているが……妙に説得力があるな」


それだけをぽつりと落とすと、ベインダルは深くソファに背を預け、額に手を当てながら、疲れたように目を閉じた。


「……はぁ。俺はアイスベルルク侯爵家に誇りを持っている。選択肢の一と三は、論外だ。二にしても……七つも歳が離れている。あの子を娶るよりは、どこかの訳ありの未亡人でも探して、静かに生きたほうがまだ――」


その言葉を言い切るよりも先に――


バンッ!!


重厚な賓客室の扉が、勢いよく開かれた。


「ベインダル様ぁぁぁぁぁ!!」


突風のように飛び込んできたのは、黒髪ツインテールに、大きなフリルリボンを結んだ少女。 フリルの多すぎるレースドレスをひらひらと舞わせながら、叫ぶように声を上げた。


「い゛っ……!?」


ベインダルの肩に、正面から勢いよく飛びついたその少女――


エンリセア・アルディシオン、その人だった。


「エンリセア嬢!?」


突然の突撃に、さすがのベインダルもたじろぎ、声が裏返る。 目の前で起こる予想外の出来事に、ディーズベルダは椅子からずり落ちそうになるのを必死にこらえた。


その一方で、エンデクラウスはというと――


「……おい、貴様。まさか……呼んでおいたのか?」


殺気じみた視線で睨みつけるベインダルに、エンデクラウスはやや肩をすくめて答える。


「誓って、そのような手は使っておりませんよ」


「嘘くさいな……!」


ベインダルが立ち上がり、エンリセアを引きはがそうとするその前に、エンデクラウスが動いた。 すっと立ち上がり、柔らかくも有無を言わせぬ手付きで、妹を兄の胸元から引き離す。


「リセ。お前、どうしてここに――」


「ベインダル様がご帰還なさったと聞きましたの!それを知った瞬間、わたくしすぐにアイスベルルク侯爵家に参りまして、するとベリルコート様が“あれはもう魔王城に向かったぞ”と教えてくださったのですわ!」


「……ベリル……!」


低く押し殺された声で、ベインダルが呟く。 その顔には怒りと呆れ、そしてほんの少しの頭痛の気配すら混じっていた。


「許さん……あの弟め……!」


「リセ。これは“大人”の話だ。今はお前が口を挟む場ではない。帰りなさい」


「なぜですの!? わたくしほどベインダル様に相応しく、条件が揃っている令嬢などいませんわ!」


エンリセアは一歩も引かず、堂々と胸を張った。


「わたくし、公爵令嬢としてすべての教養を身につけておりますし、刺繍も馬術も、詩の朗読も人前での舞踏も一通りこなせますのよ!」


「……だからこそ、令嬢というものは――私には荷が重すぎる」


紳士的な声で、静かに断るベインダル。 その返答は鋭くも優しく、彼なりの配慮に満ちていた。

エンデクラウスはふっと笑い、指を一つ鳴らす。


「ヴィーセル。妹を送ってやれ」


「かしこまりました、旦那様」


すぐに扉の外から現れた騎士が、軽く一礼しながらエンリセアへと歩み寄る。


「ベインダル様っ!! わたくしの愛は本物でしてよ!? 本物でしてよーーーーっ!!」


必死に叫びながら引きずられていくエンリセア。


バタン。


閉まった扉の向こうからは、まだ声が漏れ聞こえてくる。


賓客室に、しばしの沈黙が落ちた。


ディーズベルダは、そっと目を伏せた。


(……お兄様、ほんとうにお疲れ様です……)


思わず胸の中でため息をついた、その時――


「たやたやっ!」


小さな声が部屋に響く。


いつの間にか、ディーズベルダの膝の上から床に降りていたクラウディスが、とてとてと歩き、ベインダルの足元へと近づいていた。


そして――ぽんぽん。


小さな手で、ベインダルのすねあたりを軽く叩くように触れる。 まるで「お疲れ様でした」と労っているかのような仕草だった。

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