49.兄の悩み㊤
「子のことは理解した。煩わしい魔物討伐の遠征がなくなったことは、私にとっても喜ばしいことだ」
魔王城の賓客室。
椅子に深く腰をかけたベインダル・アイスベルルクは、氷のような青い瞳で正面にいるエンデクラウスを睨むように見据えていた。
だがその声には、ただの不満だけではなく、どこか居心地の悪さのようなものも滲んでいた。
「……だが、前々から強引な手段を使うなと、警告していただろう。エンデクラウス」
それは、兄として、家を継ぐ者としての忠告のつもりだったのだろう。
けれど――
「お義兄様。それを言うならば……強引な手段を用いたのは、我が国王のほうでしょう。
大切な妹君を冤罪にかけ、遠き荒れ地に追放し――
その最中に、貴方は“都合よく”隣国へと飛ばされていた。……さながら、戦場から遠ざけられた将軍のように」
エンデクラウスは、口元に余裕の笑みを浮かべたまま、言葉をやんわりと返す。
それは決して怒りを含まぬ声で、けれど芯の強さが滲んでいた。
「……貴様」
ベインダルのこめかみが、わずかにぴくりと跳ねる。
そして次の瞬間――
シュッ――!
椅子から立ち上がったベインダルが、瞬時に氷の剣を創り出し、エンデクラウスの喉元へ向けて振り下ろした。
だが。
「おやおや」
剣がそのまま振り下ろされることはなかった。
エンデクラウスが、片手をゆるく持ち上げ――指先でその氷剣を“白刃取り”のように受け止めたのだ。
鋭い刃が、指にかすり傷ひとつつけることもなく、触れた瞬間から蒸気を上げて溶けていく。
「そのご様子では、やはり“ご挨拶”がわりの一撃が必要だったようですね」
「……っ」
無言のまま、ベインダルはゆっくりと剣を消し、ふたたび椅子に腰を下ろした。
その仕草は無表情を装っていたが、苛立ちと焦燥が入り混じっていた。
「一発や二発、殴らねば気が済まん。俺は今、一番やっかいな女をおしつけられそうになっているのだ。
アイスベルルク侯爵家の醜聞もあり、俺の縁談はすべて白紙だ」
「……それは大変でしたね、お義兄様。お力添えになれるかは分かりませんが、一つ、忠告を」
彼は少し姿勢を正し、声を落として続けた。
「スフィーラ王女は、腕利きの調香師を側に置いています。もし、特別調合の媚香を用いられれば……。意志の強さなど関係なく、心すら乗っ取られる。その瞬間には、もう自分ではいられなくなるのです。――俺も……そうなりかけましたから」
その声は、いつもの皮肉混じりのものではなかった。
抑えきれぬ怒りと、自嘲と、そしてほんの少しの恐れがにじんでいた。
「……そのようだな。実際、私の友人の数人が王室の舞踏会で様子がおかしくなっていた。やっかいなのは、相手が王族だということだ。……誰も咎められん」
ベインダルが低く息を吐きながら、額に手をあてる。
(でも――エンディは、その“咎められない”相手を、堂々と咎めてきたのよね……)
「……ああ、ちょうど良い方がおりますよ、お義兄様。我が妹、リセなど、いかがでしょう?」
あまりにさりげなく放たれたその一言に、室内の空気が一瞬止まった。
次の瞬間――
「貴様の策略じゃないか!!」
ベインダルがガタンと椅子を引き倒しながら立ち上がり、まるで弾かれたようにエンデクラウスの胸倉をがっしと掴んだ。
「また貴様は――そうやって他人の人生をかき乱すのか!」
「お、お兄様っ! 落ち着いてください! 落ち着いてっ!」
あわてて立ち上がり、必死に兄の腕を抑えるディーズベルダ。 けれどベインダルの手はびくとも動かず、静かに怒気が滲んでいた。
一方で――揺さぶられている当のエンデクラウスはというと、相変わらず冷静に、余裕のある微笑みを崩さない。
ベインダルは大きく一度鼻から息を吐き、憤りを押し殺すように椅子へと座り直した。
(そう、エンディの妹……エンリセア・アルディシオン。
16歳。ベインダルお兄様のことが盲目的なまでに大好きな、ちょっと困った女の子よ)
「これはあくまで、俺の個人的な推測ですが――」
エンデクラウスは、手元の茶器に目を落としながら静かに湯をすする。
それから、少しだけ言いにくそうに口を開いた。
「……おそらく、リセ本人が“お義兄様と結婚したい”と父上に進言したのでしょう。そしてそれを聞いた父上が――」
ふ、と唇に笑みを浮かべながらも、目は冷ややかに細められていた。
「……子を“駒”としか見ていないがゆえに、我が子を二人もアイスベルク侯爵家に差し出すのは癪だったのでしょう。自らの手で縁談を押し進め、王に推薦を働きかけた――そう考えるのが自然かと」
沈黙が落ちた。
ベインダルは、静かに眉間を押さえた。
その仕草は、まるで長年の疲労が急に肩にのしかかったようで、威厳に満ちた背中がわずかに、落ちる。
「……最悪だ」
ぽつりと吐き出した声は、静かな絶望を含んでいた。
「つまり、俺の選択肢は――エンリセア嬢を取るか、スフィーラ王女を取るか。その、どちらかしか道が残されていない……というわけか」
彼は目を閉じ、重たげに深く息を吐いた。
その姿を見つめながら、ディーズベルダの心はじわじわと痛みで満たされていった。
(お兄様……)
あれほど誇り高く、誰よりも冷静だった兄が、こんなふうに眉を曇らせる姿など、滅多に見られるものではない。だからこそ、余計に胸が締めつけられた。
(可哀想に……)
好きでもない人と、結婚しなければならない。
家の名誉のために、自分の人生を犠牲にしなくてはならない――
そんなの、理不尽に決まってるのに。
それが貴族としての“務め”だなんて、誰が決めたのか。
(……私だって、ほんの少し前までは……そうなるはずだった)
だが今、彼女の隣には――
家でも名誉でもなく、彼女“自身”を選んでくれた男がいる。
(エンディは……“選んだ”のよね。私を。誰の指図でもなく。迷いもなく――)
その事実だけが、今の彼女の心を、優しく支えてくれていた。
と、そこへ。
「……私は」
ベインダルが、沈黙の中でぽつりと呟いた。
「……貴様のように、狡猾に立ち回ることはできん。だからこそ、意見を聞かせろ。エンデクラウス」
その声音は淡々としていたが、どこか自嘲のような響きがあった。普段の彼からすれば、それはほとんど“弱音”に近いものだった。
部屋にしんとした間が生まれた。




