48.規格外
濡れた銀髪が、顔に張りつく。
完璧に整えられていたオールバックは、見る影もなく崩れ落ち――
それでもなお、ベインダルの美貌は冷ややかに際立っていた。
だがその冷気を切り裂くように、またもや響く――
「みぅ!みぅ~~!!」
楽しげにぴゅっと水を飛ばすクラウディス。
「も、申し訳ございませんっ!!」
彼を抱いていた赤髪の護衛騎士ジョンは、半ば泣きそうな顔で深々と頭を下げる。
ディーズベルダも慌てて手を差し伸べようとした、そのとき――
「あぁ……ご紹介がまだでしたね」
すっと前へ出たのはエンデクラウス。
まるでこの状況が“予定通り”かのような顔で、優雅に言葉を紡ぐ。
「こちらが、私とディーズベルダの息子――クラウディスです。
ご覧の通り、アイスベルルク侯爵家の銀の髪と、アルディシオン公爵家の紫の瞳を受け継いでおります」
美しい紹介とは裏腹に、水しぶきがまたひとしずく、ぴちゃりとベインダルの肩に当たった。
その直後。
「…………今か?」
「……え?」
「その挨拶は、“今”必要だったのかと聞いている」
ピシッ、と張りつめた声に、場の空気が一瞬で凍りつく。
(で、ですよねーーーーーっっ!!)
ディーズベルダは内心で盛大に頭を抱えながら、ひきつった笑顔を浮かべる。
(ごめんなさいお兄様、拭く物も渡さず息子紹介って、貴族失格よね!?)
「まぁ~!!」
空気を読まず、クラウディスはさらに明るく腕を伸ばす。まるで拍手のように。
ようやく控えていた使用人たちが駆け込み、手早く上質なタオルを差し出すと、ベインダルは無言のままそれを受け取り、冷静に濡れた顔や髪を拭きはじめた。
(あああああ…どうすれば。)
ベインダルはタオルを置き、少しだけ視線をクラウディスに向けた。
「……1歳と、三ヶ月ほどと聞いているが?」
「え、ええ。だいたいそんなところよ」
「ふむ……」
一拍おいて、小さく、深く息をつくベインダル。
「……はぁ。話を聞こうか」
その一言に、場の空気がようやく落ち着きを取り戻し、皆がふっと安堵の息をもらした。
エンデクラウスはその流れに乗り、手をひらりと広げる。
「では、ご案内いたします。客間は、日当たりのいい西側にご用意しておりますので」
「……案内されるのは構わんが、誰かタオルを追加で持ってこい」
「ただちに」
使用人が慌てて駆けていき、ベインダルはずぶ濡れの髪を指先で少し直す。
表情は相変わらず無表情に近いが、氷のような殺気はようやく和らぎはじめていた。
(……うん。たぶん……たぶんだけど……嵐は、過ぎた?)
ディーズベルダはそっとクラウディスを抱き寄せ、小さく囁いた。
「今度は絶対……もうちょっと空気を読もうね?」
「みゅっ!」
元気よく返事をするクラウディスに、エンデクラウスはやけに満足そうに微笑んでいた。
◇◆◇◆◇
魔王城一階、賓客室。
昼下がりの柔らかな光が、厚手のカーテン越しに差し込む中――
ベインダル・アイスベルクは、重厚な椅子に座したまま、ゆっくりと部屋を見渡した。
「よく……この荒れ地を、ここまでにしたものだ。たったの三ヶ月で、か」
低く抑えた声だが、その響きには確かな驚きと、わずかな感嘆が混じっていた。
エンデクラウスはゆったりと腰をかけ、脚を組みながら微笑を浮かべる。
「日々、邁進しておりましたので。……とはいえ、現実のところは――」
ふと肩をすくめるようにして、続けた。
「この領地の礎は、ディーズベルダが築いた莫大な私財に支えられているのが実情でして。」
その声色は穏やかで上品、けれどどこか皮肉めいていて、明確に“本音”を混ぜていた。
ディーズベルダは、クラウディスを膝に乗せながら、特製のボディクリームを手に取り、さらりとその小さな体に塗っていた。
魔力の暴発を抑えるためのものだ。
「ほんっ! ふんっ!!」
不機嫌そうに手足をバタつかせるクラウディス。
まるで「こんなの必要ない!」とでも言いたげだが、ディーズベルダは慣れた手つきでぬるぬると塗り進める。
(動かないでってば……)
その様子を見ながら、ベインダルは鋭い視線をエンデクラウスに向けた。
「私はな……全てのことが、お前の周到な策略に思えてならん。婚前に子、急な追放と結婚、そして領地開拓。……その上でこの“子”とは。――詳細を聞かせろ。子について、だ」
重く、低い声が部屋に落ちる。
ディーズベルダとエンデクラウスは、わずかに視線を交わした。
互いに無言でうなずき合い――ディーズベルダがゆっくりと話し始める。
「……魔王城の地下に、研究室があるの。
そこには、古代の遺物とも呼べる“装置”が残されていたわ。
物質や生命さえも錬成する……信じられないような、転生者が残した知識の塊よ」
その言葉に、ベインダルの目がわずかに細められる。
「ある日、私とエンディ……エンデクラウスの血を装置に読み込ませたの。
ただの反応試験のつもりだったのだけれど……そこで、彼が生まれたの。クラウディスが」
「……錬成、されたと?」
「正確には、“生まれた”としか言いようがないわ。
彼は間違いなく私たちの子よ。血も、魔力も、思考も、すべてが融合して生まれた。
魔法で作られた存在ではなく、“授かった”に近い感覚だったわ」
静かに語るディーズベルダの声を、ベインダルは黙って聞いていた。
エンデクラウスも続ける。
「さらに……この地を覆っていた紫の霧と魔物の異常繁殖。
それも、装置の機構によって意図的に生み出された“封印”のようなものでした」
「装置の奥に、気候制御と魔物分布を司るスイッチがありました。それを解除した日――領地一帯から、一斉に魔物が姿を消したのです」
「もちろん、まだ奥地の森林には残っていますが……それも、開拓が進めばやがて消えるはずです。」
しん、と空気が静まりかえった。
クラウディスは、全身に塗り込められたクリームに不満を覚えながらも、ディーズベルダの膝にちょこんと収まり、じっと兄の横顔を見上げていた。
やがて――
「……なるほど」
ベインダルは、重く静かに一言だけを口にした。
そして、鋭い視線をディーズベルダに向ける。
「……相変わらず、お前は規格外だな、ディーズベルダ」
それが、彼なりの“納得”と“称賛”だった。
エンデクラウスは、隣でごく満足げに微笑んでいた。
まるで最初から、すべてそうなると分かっていたような顔で――。




