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47.言葉の剣

──魔王城の玄関ホールには、見えない冷気が立ちこめていた。


床は薄く霜を帯び、柱の装飾すら白くくもっている。

外の風ではない――ベインダル兄様からあふれ出た魔力によるものだった。


(ま、まずい……本気で怒ってる……!)


ディーズベルダは階段の陰から、蒼白な顔で様子を見守っていた。


玄関ホールの中央、ベインダル・アイスベルクは、エンデクラウスの胸倉をがしりとつかみ、その胸元に氷の剣を突き立てていた。


「……貴様、私が隣国へ赴いている間に、随分と勝手をしたようだな?」


その声は怒鳴りではなく、むしろ静かに落ち着いている。

けれどその語尾には、確かに氷を刺すような鋭さがあった。


エンデクラウスはというと、まったく動じた様子もなく、整った口元に相変わらず微笑を湛えていた。


「お心配には及びませんよ、お義兄様。これまでと変わらず、慎ましやかに日々を過ごしておりました」


その丁寧で優雅な口ぶりが、さらに火に油を注ぐ。


「――婚前に、子を授かったと聞いた。だが、私がこの地を発つ前、妹は確かに妊娠などしていなかったと記憶している」


剣先が、わずかにさらに沈んだ。


「では問おう。あの子は……養子か?それとも、どこの子を迎え入れた?」


(やばいわ!)


ディーズベルダは心臓が止まりそうになるのを必死に堪えた。


(お兄様が隣国に行かされたのは、私が断罪される直前。あれは王の策略……私の処分に兄が反対しないよう、わざと遠ざけられたのよ。だから当然、妊娠していたはずがないって思ってる――)


ベインダルはさらに続けた。


「さらには、王に……私を推薦したとも耳にしたが?」


(……推薦?なんの話…?)


ディーズベルダが内心で混乱するなか――エンデクラウスはふっと目を細めた。


「お義兄様……どうやら誤解があるようですね」


そう言いながら、彼はゆっくりと手を伸ばす。


ベインダルの氷の剣に、そっと指先で触れたその瞬間――

ヒッ、と空気が鳴った。


キィン……という音とともに、剣は蒸気を上げてゆっくりと溶けていく。

まるで、雪が春の日差しに溶けゆくかのように。


「俺はただ、ディーズベルダ様を、お義兄様に代わって……ささやかに、お守りして差し上げていただけですよ」


微笑は変わらず、声音も柔らかく。


それなのに、その言葉には不思議な重みと――挑発にも似た熱が、確かに滲んでいた。


ベインダルの眉が、ほんのわずかにぴくりと動く。


その沈黙の刹那――


(あ、あかん……これは……)


ディーズベルダは直感的に察していた。

このままでは本当に剣が振るわれる、と。


思わず背後の柱に手をつき、膝が震えるのを抑えながら、一歩、前へと踏み出した。


「お、お兄様! もうおやめください!」


声を張り上げたディーズベルダに、ベインダルの瞳がようやく彼女を捉える。

けれど、手に込めた力は弱まることなく、冷たい声が返された。


「待て、ディーズベルダ。こいつのせいで……アイスベルルク侯爵家に、醜聞が刻まれたのだ」


その言葉に、エンデクラウスの口元の微笑が、ほんの僅かに深まった。


そして、まるで詩でも紡ぐように、流麗な声で語り始めた。


「お義兄様。醜聞とおっしゃいましたが……。それはまるで、既に半ば倒れかけた塔に鳥がとまったことを、重すぎるから折れたのだと責めるようなものでは?」


ディーズベルダが「えっ」と目を見開く。

エンデクラウスは、まるで講義でもしているかのような丁寧さで続ける。


「アイスベルルク侯爵家は、確かに由緒ある名門でございました。ですが、年月はどの塔にも風化をもたらすもの――少々、装飾が剥げ落ち、礎が軋み始めていたのも、否定はできません」


ベインダルの眉がぴくりと再び動くが、今度は怒りか、警戒かは読めない。


「そこへ、現れたのが――ディーズベルダ嬢でした。名もなき錬金の炎により、家計に灯を点し、今や侯爵家の財政を支える柱となっております。まるで崩れかけた塔の根元に、見事な石を積み直すように」


その言葉が終わるより早く。


「――やめろッ!!」


ベインダルが怒声とともに氷剣を振り下ろした。

瞬間、空気が一気に凍りつき、剣が振るわれた軌道に、氷の華が散る。


しかし。


「……っ!」


氷の刃が、エンデクラウスの前でふっと蒸気を上げて消えた。


まるで、見えない炎が触れたかのように、氷はジュウと音を立てながら溶け、白い霧となって霧散する。


(さすがに、やば……)


ディーズベルダが思わず駆け寄ろうとするその直前。


エンデクラウスはごく自然な所作で片手を胸元に当て、深く一礼した。


「それはさておき。このたびの隣国からのご帰還、誠にご苦労さまでございました。アイスベルク侯爵家の当主代行としての重責、さぞお疲れのことと存じます――お帰りなさいませ、ベインダル殿」


その物腰は、あくまで丁寧で気品に満ちている。


だが、その態度が逆に火に油を注いだ。


「貴様……いい加減にしろ……!」


ベインダルは乱れた息のまま、懐から一枚の新聞を取り出し、ビシッと突きつけた。


「これについても説明しろ。お前が王に“推薦”したのだろう!?」


紙面の見出しには、はっきりとこう記されていた。


――『スフィーラ王女の縁談相手として、アイスベルク侯爵家ベインダル殿の名が浮上。アルディシオン家の強い後押しにより――』


ディーズベルダの表情が固まる。


(な、なにそれ!? 初耳なんだけど!?)


しかし、当のエンデクラウスは、少し眉を上げただけで、肩をすくめるように小さく息を吐いた。


「それは……父の独断でしょう。俺にそのような“趣味”はありませんし、あれと関わりたいとも思っておりません。むしろ、あのようなご縁を持つことは……己の家の終焉を早めるだけかと」


「ふざけるな。お前のいつもの策略ではないのか!!」


「俺は――」


そのときだった。


「たやぁぁーーっ!!」


鋭く響く声とともに、透明な水の塊が――


ベインダルの顔面に、ばっしゃぁぁあん!!


「なっ……!?」


ディーズベルダも、ベインダルも、エンデクラウスも、一斉にその声と音に反応して振り向いた。


そこには、護衛騎士に抱っこされた状態のクラウディスが、両手を前に突き出して「みぅ!」と元気に叫んでいた。


「あぁっ!! クラウディス、だめぇええ!!」


ディーズベルダの悲鳴と同時に、ベインダルの完璧なオールバックが、見事に崩れ落ちた。


銀の髪がしとどに濡れ、さらりと前に垂れてしまったその姿は――


「なん……だ……?」


氷の貴族のような冷酷な威圧感が、完全に霧散していた。


(ど、どうしよう……想像以上に衝撃的すぎる光景……!)

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