46.ベインダル・アイスベルルク
──最果ての荒れ地に移って、三ヶ月目。
魔王城の執務室は、朝の光に包まれていた。
その穏やかな空気を、バンッ!と破る音が響く。
「た、大変!!」
ディーズベルダが扉を勢いよく開けて飛び込み、手紙を握りしめたまま、肩を震わせていた。
頬は青ざめ、目はかっと見開かれ、明らかに尋常ではない様子。
エンデクラウスは、執務机に向かったまま顔を上げ、穏やかに首を傾げた。
「どうしました?ご実家で……何か?」
彼の視線は、ディーズベルダの手にある封筒へと向けられる。
重厚な赤い封蝋――それは、間違いなくアイスベルルク侯爵家のものだった。
「お兄様が……くるの……!」
「……どちらの?」
「ベインダル兄様の方よ!!」
椅子の背もたれに手をかけながら、ディーズベルダは震える声で叫んだ。
そのまま、手紙を机の上にバサッと広げて見せる。
「……それは、それは……困りましたね」
エンデクラウスはようやく椅子から立ち上がり、封書の文面を軽く流し見ながらつぶやいた。
(“困った”じゃ済まないのよ……!)
ディーズベルダは頭を抱えそうになるのを必死に堪えた。
──私の兄、ベインダル・アイスベルクは長男。
家の跡取りであり、とにかく厳格で、冷静で、冷淡。
貴族らしい威厳と秩序を重んじ、少しの非常識すらも許さない“完璧な兄”。
(そんな兄がどうして、急にこんな僻地まで来ようと……!?)
心臓がバクバクと早鐘を鳴らす。
「確か、ディズィの……五つ上でしたよね」
エンデクラウスが、そんな緊迫した空気を全く読まずに、のんびりとした声を出した。
「えぇ。エンディと同い年よ」
そう返すと、ふたりの間に一瞬の沈黙が落ちた。
「……」
「……」
「ディズィ。俺の歳……知っていたんですか?」
少し意外そうに、でもどこか嬉しそうに問いかけるエンデクラウス。
ディーズベルダは、気まずそうに視線を逸らしながら肩をすくめた。
「前に……ジャケルから聞いたのよ」
そのやり取りを、机の下からひょこっと覗き込んでいたクラウディスが、ぱあっと笑顔になった。
「まぁ!」
その可愛らしい反応に、ディーズベルダもつい口元を緩める。
けれどすぐに我に返り、エンデクラウスを睨むように見つめた。
「何よ、その顔。」
「いえ。ただ……俺のことを、少しずつ知っていってくれてるんだなぁと思って。嬉しくて」
ニッコリと微笑んで、エンデクラウスは手を胸にあてて、まるで感謝の祈りでも捧げるような所作。
その姿があまりにも穏やかすぎて、ディーズベルダは思わず叫びたくなった。
「……どうして、そんなに呑気なのよ!困りましたって言ってたじゃない!」
「ええ、困っています」
「……じゃあ、なんでそんな落ち着いてるのよ」
「それは……どうお呼びすべきか考えていただけです。“お義兄様”か、“義兄上”か……“ベインダル”呼びは恐れ多いですし」
「そこ!? 考えてるとこ、そこなの!?」
頭を抱えて項垂れるディーズベルダに対して、エンデクラウスは相変わらず優雅な態度を崩さず、横で紅茶を一口すする余裕すら見せていた。
「落ち着いてください。まだ到着までは数日ありますし、準備はその間に済ませましょう」
その落ち着いた声に、逆に焦りが募る。
(いや、準備って何!?心の準備は何日あっても足りないのよ!?)
そんな心の叫びを胸に抱えながら、ふと、スカートの裾がぽんぽんと軽く叩かれるのを感じた。
「……クラウディス?」
覗き込むと、息子はにこにこと笑いながら、小さな手でディーズベルダのスカートをちょんちょんとつついていた。
「まー!」
「……もう、癒しすぎるわね、あなたは」
力が抜けるように、小さく笑みがこぼれる。
(ほんと、どうしてこんなに可愛いのかしら……)
隣では、クラウディスの笑顔にエンデクラウスまでもがほほえみ、なんとも牧歌的な空気が漂っていた。
(……だめだ。お兄様の“正反対”が、ここにいる……)
だが、ふと。
(……そういえば)
ディーズベルダは少しだけ眉を寄せながら、思い返す。
(アイスベルルク侯爵家にいた頃、エンディとベインダル兄様って、わりと普通に会話していた気がする……)
一見まったく性格が合わなそうなふたりだったけれど、思い返せば、意外なほど落ち着いて話していた記憶がある。
確か――
(……ここ、“最果て”の地への魔物討伐の遠征も、一緒に行ってたような……)
遠征準備の報告書に並んでいたふたりの名前。
兄は無駄な言葉を一切口にしない人だったが、エンデクラウスには妙に柔らかい表情を向けていた気もする。
(案外……仲良いのかしら……)
そう思った瞬間、自分の中で広がっていた緊張の糸が、ふっと緩んだ。
とはいえ、油断はできない。
(でも……あの兄様のことだもの。表面上はともかく、何かしら言ってくるに違いないわ。覚悟はしておかないと……)
こめかみを押さえながらも、ほんの少しだけ、気持ちは軽くなっていた。
そんなディーズベルダを見て、エンデクラウスはそっと声をかけた。
「ご安心ください。俺が先に“お義兄様対応案”を練っておきますので」
「……はぁ?」
「きっと、俺たちの仲睦まじい様子をお見せすれば、警戒も薄まります」
◇◆◇◆◇
──数日後。
澄んだ空気のなか、魔王城の玄関ホールには不穏な緊張が満ちていた。
「……お久しぶりですね、お義兄様。」
「……」
冷たく凍りつくような空気をまといながら、ベインダル・アイスベルルクは、一歩も動かずに立っていた。
エンデクラウスの目の前。
彼の喉元には、きらりと輝く氷の剣が突きつけられていた。
それはまさに――本物の剣。
形ばかりの威嚇ではない、完全なる“殺意”を孕んだ氷の魔剣だった。
にもかかわらず。
当のエンデクラウスは、まるで朝の挨拶でもしているかのような、柔らかく上品な笑みを浮かべていた。
「ふふ……お変わりないようで、何よりです」
(いやいやいやいやいやいやいやいや!!)
階段の上からこっそり覗いていたディーズベルダは、頭の中で盛大にツッコミを入れた。
(どうして!? どうしてこうなったの!?!?)
今、目の前では兄と夫が一触即発の空気を作り上げていた。
ベインダル・アイスベルルク――
酸素を凍らせたような銀髪を、整然としたオールバックにまとめた、鋭い氷のような男。
その冷ややかな青い瞳は、まるで人間の感情を必要としないかのように静かだった。
その姿は、どこまでも美しく、どこまでも威圧的で――
そして、ディーズベルダにとっては、幼い頃から「逆らってはいけない存在」だった。
(どうして最初の言葉が「久しぶり」じゃなくて“氷の剣”なのよぉお!?)
唇を噛みしめながら、階段の影から身を乗り出して見守る。
その視線の先では、エンデクラウスが剣を喉に当てられたまま、どこか余裕すらある口調で続けていた。
「相変わらず、お会いするたびに“氷”の洗礼を頂けるのは光栄ですが……今回は、何かご不満でも?」
ベインダルの剣先が、わずかに近づく。
氷の刃が、エンデクラウスの皮膚すれすれにまで迫っているのに――彼は一切動じない。
(……うそでしょ!? なんで笑ってるの!?!?)




