45.給水係
――それから数日後の朝。
魔王城の玄関ホールでは、エンデクラウスがいつもと変わらぬ優雅な手つきで、クラウディスをおんぶ紐でしっかりと背負っていた。
まだ小さいクラウディスは、ふかふかのマントの上にちょこんと乗って、くすぐったそうに揺れている。
「また、クラウディスとお散歩?」
ディーズベルダが廊下から現れ、笑みを浮かべながら声をかけた。
エンデクラウスはちらりと振り返り、微笑む。
「はい。とてもお利口さんなので、日課にしているんです」
「そう……気を付けてね」
言いながらも、なぜだか胸の奥に、小さな“もやっ”とした違和感が残った。
(最近やけに、毎朝クラウディスと出かけてるのよね……あんなに育児に情熱を見せるタイプだったかしら)
――そう思ったが最後、ディーズベルダの中の好奇心がむくむくと膨らみはじめた。
◇◆◇◆◇
(というわけで、こっそり尾行中)
魔王城の裏手の茂みに身をひそめるディーズベルダの隣には、赤毛の護衛騎士・ジョンの姿。
「奥様……絶対、バレますって」
「大丈夫よ。この距離なら見つからないはず」
腰を低くして、物陰に隠れながら視線を先へやる。
少し離れた先で、エンデクラウスの背に揺れるクラウディスが、小鳥のように「きゃっ」と笑っていた。
(……え? 止まったわ)
彼らが足を止めたのは、魔王城近くに設置されたウォーターサーバーのひとつの前だった。
「……なにかしら。水の点検?」
そう思った瞬間、エンデクラウスがそばにいた騎士に低く指示を出す。
「蓋を開けてくれ」
がちり、と重たい金属音が響き、サーバー上部の給水タンクの蓋がゆっくりと開いた。
ディーズベルダは思わず身を乗り出しそうになる。
(まさか、本当に点検……?)
――そのときだった。
「ほら、クラウ……水だ」
エンデクラウスが微笑みながらクラウディスの手を取る。
その小さな手のひらが、サーバーのタンクの上にそっとかざされた。
すると――
「みぅ! みぅ!」
クラウディスが元気よく声を上げた瞬間、彼の手のひらから、きらきらと光を帯びた水の帯があふれ出した。
まるで滝のように――
透明な魔法の水が、タンクの中へと注ぎ込まれていく。
「よし、止まるんだ」
エンデクラウスの声に、クラウディスはぴたりと動きを止める。
「……あい!」
小さくうなずくその姿は、まるで魔法の精霊のようだった。
「よくできた。……いい子だ」
エンデクラウスが優しく頭を撫でると、クラウディスは嬉しそうに「えっえっ」と笑って、両足をぴょこんと弾ませる。
蓋を閉める騎士たちも、なぜかほんのりと頬が緩んでいた。
(……えっ)
茂みに潜んでいたディーズベルダは、思わず目を見開いた。
(なにあれ。クラウディスの、魔力で……水を生成して、補充してたの!?)
(……やけに最近、毎朝クラウディスと出かけてると思ったら――)
(と、とんでもないことしてたーーーーっ!?)
茂みに身を隠しながら、ディーズベルダは心の中で叫んだ。
まさか、魔法の水でウォーターサーバーを補充させていたなんて。
あれだけ「癒される」「可愛い」と言っていたその愛息子を、まさかの“給水係”にしていたとは。
――すると、隣のジョンが小声でつぶやいた。
「奥様……そろそろ旦那様に気づかれますって」
「大丈夫よ。距離も取ってるし、姿も隠してるし――
というか、それ以前に、これは調査だから。母親としての、ね?」
ぐいっと眉を上げて、ディーズベルダは目線を前方に戻した。
そして、次にエンデクラウスたちが向かったのは――畑だった。
(……は?)
畑の一角、そこには小さな貯水穴が作られていた。
作物の育成に使うための、臨時の貯水槽のようだ。
エンデクラウスは、そこにクラウディスを連れてくる。
「クラウ。今日はたっぷり出していいぞ。……好きなだけ水を出してごらん」
「みぅーーーっ!!」
クラウディスは嬉しそうに声をあげると、両手を貯水穴の上に掲げる。
次の瞬間――
ぴゅるるっ……ざぁぁぁぁっ!
まるで小さな泉が湧いたかのように、両手から水が勢いよく放たれ、畑の穴に注ぎ込まれていく。
「うわっ、すごい量……!」と騎士のひとりがぼそりとつぶやいた。
エンデクラウスは、そんなクラウディスの背後にしゃがみ込み、笑みを浮かべながらゆっくりとその髪を撫でている。
「そうだ、いい子だ。無理はしなくていいからな。……うん、すごく上手だぞ」
「えへっえへっ!、みぅ!」
クラウディスは自分の“お仕事”に大満足の様子で、にこにこと笑いながらせっせと水を出し続けている。
(……ちょっ……ちょっと……)
(え? もしかして……うちの子、普通に“働いて”ない!?)
(いや、違う。これは……労働じゃない。魔力の訓練……訓練って言えば聞こえはいいけど――)
――まさかの水源担当。
「……うちの息子、こんな立派に“お役目”を担ってたなんて……」
ディーズベルダは、じわじわとこみ上げてくる複雑な感情を抱えたまま、額に手を当ててそっと嘆息した。
(可愛いけど……すごいけど……でも、なんかモヤる……!)
そのとき――
「ディズィ? ……尾行しているんですか?」
ひょい、と穏やかに声がかけられた。
「うわぁあああっ!!?」
驚きのあまり、ディーズベルダは飛び跳ねた。
反射的に振り返ると、そこには、いつの間にか真後ろに立っていたエンデクラウスの姿が。
相変わらずの整った顔立ちに、上品な笑み。けれど今は――
(むっちゃバレてたーーーっ!?)
「さ、さっきまで……あっちにいたじゃないの……!?」
「ええ、いましたよ。でもディズィの視線を感じたので、戻ってきました」
さらりと答えるその態度に、どこか余裕さえ感じるのが腹立たしい。
「どうして尾行を?」
「そ、それは……クラウディスが心配で……!」
内心ドキドキしていたはずなのに、こんなふうに捕まると、かえって言い訳じみて聞こえてしまう。
視線を横に向けると、少し離れた場所で騎士のひとりが、クラウディスをしっかりと抱っこしていた。
銀髪の幼い顔が、満足そうに微笑んでいる。
その小さな手のひらは、まだ貯水槽の上にかざされており――
「みぅ、みぅ……」というご機嫌な声とともに、魔法で生成された水がとくとくと注がれていた。
(まだやってる……! ていうか、あの子、どれだけ魔力あるのよ……!?)
「どうして……あんなことをさせてるの」
ようやく落ち着いて、低めの声で問いかけた。
ディーズベルダの瞳には、少しだけ責める色が混じっていた。
すると、エンデクラウスは――不思議そうに瞬きをひとつして、優しく答える。
「魔力量が多い子どもは、意識的に発散させてあげないといけないんです。無理に溜め込ませると、身体にも心にも負荷がかかりますから。俺も……昔、そうでした」
ディーズベルダははっと息をのんだ。
エンデクラウス自身が、幼少期に魔力量をうまく制御できず、過剰な力で周囲を傷つけかけたことがある――
以前、ジャケルが語ってくれていたことを思い出す。
(……そうか。これは、訓練であり、癒しであり……愛情なんだ)
ただ水を出させていたわけじゃなかった。
「……最初から、言ってくれたらよかったのに」
ディーズベルダがぽつりと呟くと、エンデクラウスはどこか悪戯っぽく、唇をゆるめた。
「尾行してくるディズィが見たかったんです。可愛いですよ。」
「……はあ!? ほんとにもう……!」
頬を赤くして詰め寄ると、彼はそっとその手を取って――
まるで「俺、悪くないでしょう?」とでも言いたげに、目を細めた。