44.海を見据えて
――翌朝。
薄い雲が空に広がる中、最果ての魔王城にもやわらかな光が差し込んでいた。
執務室の窓は開け放たれ、風がカーテンを揺らしている。
その部屋の中心では、ディーズベルダが椅子に座り、まっすぐ前を見据えていた。
その膝の上では、クラウディスがぴょこりと座っていて、ふわふわの銀色の髪を揺らしながら、元気いっぱいに「まぁ!」と声をあげている。
それはちょうど、報告に来た医師の男性が、感染症について話し始めたタイミングだった。
「奥様。結論から申し上げますと――」
眼鏡をかけた側近であるヴィシャルが、資料を手にしながら静かに言う。
「領地で発生していた感染症は、ほぼ完全に沈静化しております。急ぎで手配していただいた医薬品と、ゴールデンリーフを調合した薬が、非常に良く効きました。おかげで、重症者も回復傾向にあります」
「まぁ!」と声を重ねるクラウディスがまた愛らしい。
ディーズベルダは、自然と表情をゆるませた。
「よかった……」
この数日、走り続けていた心がようやく落ち着くのを感じた。
彼女の隣には、エンデクラウスが座っている。
彼もまた真剣な顔で報告を聞いていたが、クラウディスの「まぁ!」に反応して少し口元をほころばせる。
「感染源は、不衛生な雨水をそのまま使っていたことにあったようです。ですが、例の“ろ過装置”……いえ、ウォーターサーバーの設置により、今は飲み水の安全も確保されております」
「それも、ディーズベルダ様の迅速な対応があってこそです」と、ベルと医師が深く頭を下げる。
「いえ……みんなが協力してくれたからです。あなたや薬師、ジャケルも……それに、夫のおかげで物資が届いたからこそ、です」
彼女の言葉に、エンデクラウスは何も言わず、けれど少しだけ背を伸ばした。
その横顔はどこか満足げで、誇らしげでもあった。
「クラウディスも、パパを助けてたのよね。」
ディーズベルダが微笑んでそう声をかけると、クラウディスは「んー!」と元気よく腕を振って応えた。
ふわふわと揺れる銀色の髪と、まっすぐな紫色の瞳が愛らしくて、思わず胸がきゅっとなる。
「……かわいすぎる」
隣で、ぼそっと呟いたエンデクラウスに、ディーズベルダは吹き出しそうになり、ぐっと唇を噛んで堪えた。
(まったく……父親バカもここまで来ると微笑ましいわね)
けれどそんな穏やかな空気も、やがて静かに切り替わっていく。
ヴィシャルや医師の報告が一段落したのを見計らって、エンデクラウスが静かに口を開いた。
「今後の方針についてだが――」
その声に、部屋の空気がぴんと引き締まる。
ただ、エンデクラウス自身は堅苦しくはならず、あくまで自然体のまま言葉を続けた。
「住宅整備が安定し、食料がひとまず落ち着いたなら……次は、海への道を整備していこうと思う」
「……海?」
ディーズベルダは思わず聞き返した。
その言葉に少しだけ瞳が丸くなる。
「東へおよそ五日。最果ての領内には、小規模ながら海岸線がある。魔物も多く、アクセスも悪いが……資源の可能性もある。釣りに使えるような舟の技術はまだ整っていないが、まずは道を切り拓くところからだ」
彼の声は冷静だったが、どこか少年のような熱を帯びていた。
「……夢物語のような提案かもしれないが、我々の領地が本当に“独立した”場所として発展していくには、外との交易手段を持つ必要がある。それが“港”だ。そう思っている」
その横顔は、まるで未来を見据える戦士のようで――
けれど、その言葉の最後に、少しだけ口元が緩む。
「……まあ、大体のことは……妻が形にしてくれるので、案を出すくらいならいくらでもできる」
「ちょっと」
ディーズベルダは呆れたように肩をすくめたが、内心では頬が緩むのを止められなかった。
(……ほんと、簡単に言うのよね、この人)
けれどその声には、信頼と甘え、そしてなにより“尊敬”が込められていた。
「まぁ、陸路を作るくらいなら、なんとかなると思うけれど。舟はまだ開発途中なのよ? 木を削って浮かせた程度の小舟がやっと。でも……海が見られるのは、ちょっと楽しみかも」
ディーズベルダがそう言って微笑むと、膝の上にちょこんと座るクラウディスがぱあっと顔を輝かせた。
「まぁ!」
元気よく跳ねるような声に、部屋の大人たちが思わずくすりと笑みをこぼす。
だが、続いたのは少し現実的な声だった。
「しかし、奥様。現状、領民の食料や薬品の多くは……いまだディーズベルダ様の私財によってまかなわれております」
医師の隣にいた補佐官が、控えめながらもはっきりと指摘する。
「住居や水の確保には目途が立ちつつありますが、安定した農業生産や漁業には……まだ、もう少し時間がかかるでしょう。――海を望むには、もう少しだけ、先の話になるかと」
そう言われて、ディーズベルダはほんの一瞬だけ、まぶたを閉じた。
現実は、確かに甘くない。
けれど――その目を開けたときには、もういつもの強い光が戻っていた。
「……ええ。確かにまだ遠いわね。でも」
ディーズベルダはそっとクラウディスの頭を撫でながら、はっきりと宣言する。
「海を“独占”できるっていうのは、大きいのよ。国にとっても、交易にとっても。 今は何もないけれど……もし、あの海に希少な貝や薬草、魚が眠っていたら?」
「可能性は未知数、というわけですね」
エンデクラウスがすっと頷く。
その声には、彼女の提案を信じているという色があった。
「だから、船は私が先に開発するわ。――まともに航行できる、ちゃんとしたやつを」
手の中にある何もない未来を、まるで確かな設計図のように語る。
その言葉には根拠などなかったけれど、不思議と誰もが「できるだろう」と信じてしまう。
それが、ディーズベルダという人物だった。
「やっぱり、なんでも奥様が解決してしまわれる……」
ヴィシャルがぽつりとつぶやくと、エンデクラウスがどこか誇らしげに微笑んだ。
「ええ。妻は、だいたいのことを“本当に”こなしてしまいますから」
「エンディ、そこで胸を張らないでください」
ディーズベルダは半眼になって小突いたが、心の奥はどこか温かかった。




