43.全てが愛だった。
夜――
窓の外には星の光がぽつりぽつりとまたたき、薄いカーテン越しに淡い月明かりが差し込んでいた。
魔王城の寝室、広くて静かなベッドの上。
ディーズベルダとエンデクラウスは並んで横になり、まるで寄り添うように毛布の中で肩を合わせていた。
「ねぇ……」
小さくつぶやくようにディーズベルダが切り出す。
「王城で……何があったの? あの記事。スフィーラ王女に、何をされたの……?」
声はあくまで穏やかだったが、その奥に潜む感情は隠しきれない。
怒りでも、嫉妬でもない。ただ――知りたいと思った。
隣で目を閉じていたエンデクラウスは、少しだけ目を開けて、彼女の方を見つめた。
「そうですね……」
まるで思い出を手繰るように、彼はディーズベルダの銀色の髪をそっと指に巻きつけながら言葉を選ぶ。
「“あの魔石”を王都に広めるために、記者を雇い、従者のふりをして同行させていました。
公にするなら、あの場しかないと判断したんです」
「ふんふん……」
ディーズベルダは彼の胸元に顔を寄せながら、まるで読み聞かせを聞くように小さく相槌を打つ。
「でも、その帰り道で……スフィーラ王女が、俺に“特殊調合した媚香”を嗅がせてきて……」
言葉を濁すように一拍置くと、声がさらに低くなった。
「そのまま、彼女の私室へ――誘導されてしまいました」
「………………」
その瞬間、ディーズベルダの眉がぴくっと動いた。
「……そんなことできるなら、在学中にでもやってくれてたらよかったのに」
「……ディズィ?」
エンデクラウスはゆっくりと眉を上げ、にこりと微笑んだ。
けれどその笑顔は、どこか張りついたように整いすぎていて――逆に、じわじわと怒気がにじんでくる。
まるで“にこやかに怒っている”ことを、全身で表現しているかのようだった。
「じょ、冗談よ。冗談!」
慌てて手を振りながら誤魔化すが、目は完全に泳いでいる。
「で、で? それでどうなったの?」
「クラウディスが、それはもう大泣きして……大暴れしてくれて。
王女の部屋を水浸し――いえ、それ以上に、ほぼ“破壊”してしまいました」
「えっ……」
「そして、駆けつけた王と、俺が雇った記者にも、見事に目撃されてしまいまして」
口元を隠しながらも、どこか誇らしげな声色。
「……なんだか嬉しそうね」
ディーズベルダが疑いの目を向けると、エンデクラウスは照れもなくうなずいた。
「はい。あのような形で誕生した命ではありますが――やっぱり、愛しい我が子です。
暴れてくれたことが、正直、嬉しかったんです」
そう言った彼の目は、どこか遠くを見るような、優しい光に満ちていた。
(……そっか)
ディーズベルダは胸の奥がじんわり温かくなるのを感じていた。
彼女自身が産んだ子ではない。けれど、それでも間違いなく、クラウディスは“わたしとエンデクラウスの子”だった。
あの子の無垢な叫びが、父を守ってくれたなんて――ちょっと、嬉しい。
「……公爵家の方では、大丈夫だったの?」
そっと問いかけると、エンデクラウスは一呼吸おいてから、静かに答えた。
「はい。いつも通り、俺は“道具”として振る舞い、心を押し殺して過ごしました」
その声に少しだけ苦味がにじむ。
ディーズベルダは思わず顔を覗き込む。
と――エンデクラウスが、じわりと彼女を見つめ返してくる。
まっすぐに、純粋に、言葉を待っているような……なんとも言えない、子犬のような視線。
(ど、どうして……そんな“俺、頑張ったでしょ?”みたいな顔をするのよ……!)
負けた気がして、悔しいような、でもつい笑ってしまって。
「……よ、よしよし」
結局は根負けして、ディーズベルダは手を伸ばして、そっと彼の頭を撫でた。
髪をとかすように、指先でくしゃりと軽くなでる。
その瞬間――
「……ふふっ」
エンデクラウスは、どこか満足げに目を細めた。
その表情は穏やかで――けれどどこか、満たされたような幸福が滲んでいて。
(……ほんと、わかりやすい)
微笑みながら、ディーズベルダはふと視線を落とす。
彼の肩越しに見える天井をぼんやり眺めながら、昔のことを思い出していた。
エンデクラウスが婚約してからというもの――
彼はずっと、アイスベルルク侯爵家に“入り浸って”いた。
当時、彼が言っていたのはこうだ。
「公爵家では扱いが悪く、毒を盛られたり、意図的に女性を部屋に送り込まれたりと、ろくでもない目に遭っている。だから、婚約もしたことですし、発明家のあなたを“監視”するという名目で、家を出たい」
――そう聞いていた。
なるほど、それなら理由として納得できる。
そんな目に遭っているのなら、むしろ逃げ出したくもなるだろう。
そして彼は、実際に私の家に居座るようになった。
けれど、それからしばらく経つと――
私は勝手に、こう思うようになっていた。
(きっと異世界の料理が気に入ったのね。あるいは、魔道具の仕組みを研究したくて、発明品に惹かれてるのかも)
むしろ彼の興味はそちらにあるものだと、本気で信じていた。
でも――
(……違ったのよね)
その勘違いに、ようやく気づいたのは――結婚して、隣で彼の寝息を聞くようになってからだった。
異世界の料理でも、魔道具でも、公爵家からの逃避でもない。
一番の理由は――
彼は、最初からずっと、私を好きだったのだ。
“逃げてきた”のではなく、“来たかったから来た”。
それがすべてで、それ以外は全部――ただの言い訳だった。
そう気づいてしまったとき。
胸の奥が、じんわりとあたたかくなると同時に、くすぐったくて、ちょっと悔しいような、甘い気持ちがこみ上げてきた。
(……ほんと、最初からそう言ってくれればいいのに)
でもきっと、それを言葉にするのも彼らしい駆け引きなのだろう。
優雅に微笑んで、裏ではすべて計算している――
「それにしても」
エンデクラウスが、ゆっくりと体を起こしながら口を開いた。
その顔には、にこやかだけどどこか意地悪な笑みが浮かんでいる。
「さきほどの、“在学中にでもやってくれてたらよかった”というのは――聞き捨てなりませんね、ディズィ?」
「え……」
ディーズベルダがきょとんとした顔で振り向いたその瞬間、エンデクラウスは真顔になって――
でも、瞳だけは冗談を含んだまま、じっと彼女を見つめる。
「……俺を、愛していないのですか?」
囁くように、甘く、誘うように。
(……なにその声、反則でしょ……)
ディーズベルダの頬が一気に赤くなる。
何か返さなきゃと焦るほど、口が上手く回らない。
「あ……あ、あいしてる……」
ようやく絞り出した声は、蚊の鳴くようなか細さだった。
「……良く言えました」
エンデクラウスは、満足げにうなずくと――
そのままディーズベルダをぐいっと抱き寄せ、すっぽりと腕の中に閉じ込めた。
「今夜は、寝かせませんよ」
耳元でささやかれたその声は、あまりにも低くて、優しくて、甘すぎて――
「ちょっ、ちょっと!? 話が違うじゃない!!」
ディーズベルダの悲鳴めいた叫びが、寝室に響いたのだった。