42.策士に交渉してはいけない。
――夕方。
オレンジがかった陽光が、カーテン越しに差し込んでいた。
ここは魔王城の二階、ディーズベルダとエンデクラウスの専用の寝室。
落ち着いた色味の調度と、ふかふかの絨毯。窓辺にはゆっくりと風が流れ、カーテンの裾が揺れている。
その静かな空間の中――
「……はぁ」
ディーズベルダは、ソファの上でゆっくりと溜息をついた。
エンデクラウスの膝の上にちょこんと座りながら、手元の新聞をめくっては戻し、再びため息を漏らす。
買ってきた新聞は全部で五日分。
彼が王都へ向かったその日から、きっちりの記録だ。
(……もう、理由は分かったわよ)
咎めないと約束した理由――それは、彼が「全部、話してきたから」だった。
新聞の紙面には、エンデクラウスが“クラウディスという子どもを授かっていた”という事実を公表したこと。
しかも婚前にできた子だと正直に語ったこと。
さらに、王族の前で――まるで誇るように、その子を披露してまわった様子までが細かく記されていた。
(……まさか大っぴらにやるなんて……!)
ディーズベルダは頬を指先で押さえる。
顔が火照っているのは、新聞に書かれていた内容があまりに堂々としていて、恥ずかしくなってきたからだ。
しかも――すでに四度、自ら彼にキスをした。
ご褒美という名目で。
(……なんで律儀に守ってるのよ、私)
表向きはまだ最後の新聞を読んでいる“ふり”をしながら、思考だけはフル回転している。
そのとき――
「……もう、読み終わっているでしょう?」
耳元で、低く甘く囁かれた。
「まっ……まだよ」
答える声がちょっと上ずる。嘘がバレてる気がして、余計にバツが悪い。
(つまり彼は……クラウディスを“医師に見せる”って名目で王都に連れて行ったけど、実際は――)
「……ありましたか? 俺のスキャンダルは」
「……あったわよ。王女と事故って」
「未遂です」
即答。微妙に誇らしげなのが腹立たしい。
(ああもう、これ以上強く言えないわ……。どうせ、スフィーラ王女の方から無理やり迫ってきたに決まってる)
(私が本当に怒るべきなのは――クラウディスを“道具”に使ったってことよ。けど……“咎めない”って、約束しちゃったのよね……)
軽く目を閉じて深呼吸。
(やっぱり交渉なんて、策士相手にするもんじゃないわ……!)
「……ディズィ」
名前を呼ばれる声が、また甘い。
まるで誘うように、静かに――それでいて、逃さないように。
「……早く」
(そんなに欲しいの!?)
しかたなく新聞をそっと脇に置いて、息を整え――ちゅっ、と音を立ててキスを落とす。
ほんの一瞬で、すぐに距離を取った。
「これで終わり! 私は領民のためにウォーターサーバーを作らないといけないの。だから……」
そのまま立ち上がろうとした瞬間――
「逃がしません」
ぎゅっ、と両腕で背中を引き寄せられた。
気づけば再び、膝の上に収まってしまっている。
「ちょ、ちょっと……!」
ぎゅっ、と両腕で背中を引き寄せられる。
柔らかく、けれど逃げられないほど確かな力。
気づけば、再びエンデクラウスの膝の上に収まってしまっていた。
「ちょ、ちょっと……!」
焦ったように体を起こそうとするも、それすら許されないほど、しっかりと抱きしめられている。
「医者も薬師も連れて帰ってきました。
あと二日もすれば、スミールが大量の荷馬車とともにここへ到着します。
薬も物資も、すべて揃います。――領民は、もう大丈夫です」
耳元でささやかれたその言葉に、ディーズベルダは少しだけ目を細めた。
(……いつの間に、そんな準備を)
たった数日でそれだけの段取りを整えたなんて、やっぱり彼は恐ろしいほど抜け目ない。
けれど、頼もしいことも――確かだった。
「でも……」
言いかけたその瞬間、彼の指先がそっと頬をなぞった。
「ここで起こったことは、すべてジャケルから聞きました。
それに、先に知らせに来た騎士たちからも」
その声は、いつになく柔らかくて――あたたかい。
「……一人で、頑張りましたね。ディズィ」
ぽつりと落とされた言葉に、胸の奥がじんわりと熱くなる。
大げさな言い方じゃない。声も静かだった。
けれど、そこにこめられた思いが、優しさが、ちゃんと伝わってくる。
ゆっくりと頭を撫でられる。
まるで、壊れ物に触れるようなやさしい手つきで。
「……当たり前よ」
ディーズベルダは、ちょっとだけ視線を逸らして、拗ねたように呟いた。
「もともと私一人で管理する領地だったんだから」
「ふふ、それはそうですが……」
エンデクラウスはわずかに笑い、彼女の肩に額を預けて囁く。
「――それはそれとして、俺の愛を疑われたのが心外です」
「なっ……!」
驚いて顔を上げかけた瞬間、彼は満足げに続ける。
「ちゃんとご褒美はあげたわよ!? 約束通り、全部!」
「ええ、いただきました。ですが……“疑われた”こと自体が傷つきました。
これはもう、しばらく独占しても文句はありませんよね?」
「な……ずるい。話の持っていき方がずるすぎる……!」
言い返しながらも、押し切られていく自分に気づく。
「と、とにかく……クラウディスに会ってから。まず、様子を見ないと」
「先ほど、眠ってしまったそうですよ。お医者様とジャスミン、それと騎士たちがついてくれています。安心してください」
さらりと言いながら、腕の力を強めてきた。
ディーズベルダは一瞬で悟る。
(……ああ、そういうこと)
この男は一度「そうする」と決めたら、退路なんて与えない。
甘い言葉の裏で、扉をぴしゃりと閉じてくる。
それは、昔から変わらない彼のやり方だった。
(全く……学園時代だって、そうだったじゃない)
すぐに二人きりになるよう誘導してきて、気づけば“話ができるのは私だけ”になっていて――
ずるいくらい、自然に距離を詰めてくる。
「……仕方のない旦那様ね」