41.盛大な罠
宿の扉を開けた瞬間――
目の前に立っていたのは、エンデクラウスだった。
その顔は整っていて、いつも通りの優雅で完璧な彫刻のような美しさ。
けれど、なぜだろう――妙に冷たく、光が鈍く感じるのは気のせいだろうか。
いや、そう思いたいだけかもしれない。
「起きてたのね……今ちょうど帰るところだったの」
なぜか反射的に笑顔を作ってしまう。自分でもよくわからないけれど、引きつってるのが分かる。
そんな彼女の手元に視線を落としながら、エンデクラウスがぽつりと口を開いた。
「それは……?」
低い。妙に低い。
冷たいというより、感情を抑え込んでいるような、静かな怒りがにじむ声。
「えっ、ああ、これは……ちょっと、久しぶりに外の様子が知りたくて……ね?」
笑顔のまま言い訳しながら新聞を引き寄せようとしたが――
ぱっ。
一瞬の隙に、ディーズベルダの腕から新聞の束がすべて奪われた。
「ちょっ……!?」
抗議の声をあげる暇もなく、彼はそれをすぐそばにいた騎士に手渡す。
「こんなもの、なくたっていいじゃないですか。
まだまだやらなければならないことがあるでしょう?」
その声音は柔らかいのに、どこか棘がある。
「そ、それはそうだけど……! と、とにかく、ここじゃ邪魔になるわ。帰りましょう」
逃げるように言いながら数歩、後ろを向いた瞬間――
「わっ」
ひょいっと持ち上げられて、次の瞬間には馬の背に乗せられていた。
見慣れた黒いたてがみ。どこか誇り高く気品のある馬。
「え? クラウン……連れてきたの?」
後ろから、エンデクラウスが自分の愛馬にまたがると、自然とぴたりと密着するかたちになる。
「はい。最果ての荒れ地が今後の拠点ですから」
その声はやけに淡々としていて、静かすぎて逆に怖い。
「……あの、怒ってる? 声のトーンが低いわよ?」
揺れながら尋ねると、彼の片腕がするりと伸びてきて、ディーズベルダの腰をぎゅっと抱き寄せる。
「そう聞こえてしまいましたか?」
静かに囁く声が、すぐ耳元で響く。
「俺は怒ってなんて……いえ、怒っています」
「どっち!?」
思わず振り返りそうになったが、体をがっちりホールドされて動けない。
「起きて、隣にいないと不安なんです。だから怒っています」
「……っ、え、それって……」
ちょっとだけ心臓が跳ねたけれど、すぐに言い返す。
「ご、ごめんなさい。でも、あなたが隠し事するから悪いのよ!」
その瞬間、エンデクラウスは何も言わず、深く、長いため息をついた。
(な、何よその溜息! あきらめたみたいな!)
不機嫌な沈黙に包まれる馬上。
けれど、ディーズベルダの脳内では、別の考えがぐるぐると回り始めていた。
(……彼が隠したがってることって、なに? 私の汚名を返上して爵位をもらうって言ってたけど、それにしては話がうますぎる)
(もちろんそれなりの献上品はしたはず。でも、だったら特に隠すこともないはずよね……?)
ふと、エンデクラウスの表情が頭に浮かぶ。
(……まさか。女関係!?)
唐突な思いつきに、自分で自分に「まさか」とツッコミたくなりながらも、妄想は止まらない。
(そうよ。たぶん王都で、誰かと……誰かと……っ!)
(浮気!? 浮気してたのね!?)
(しかも、スキャンダルになるような相手とか!? えっ、まさか王女!?)
勝手に結論にたどり着いて、ディーズベルダの顔がわずかに引きつる。
(そうよ……私が領地で必死に寝ずに働いてた間に、あの人は他の女と遊んで……!!)
(それでバレる前に寝ずに馬飛ばして帰ってきたってわけね!? だから新聞を全部取り上げたのよ!)
(……浮気者!)
ディーズベルダの思考は全力で暴走し、顔はもう“無”の境地――怒りを超えて、感情が沈み込んだ“真顔”になっていた。
もちろん、全ては盛大な誤解なのだが、本人はそれに気づくどころかますます確信を深めていく。
「……あのねぇ、エンディ。そういうのって、いつかバレるのよ?」
抑えた声でそう切り出すと、エンデクラウスは何も言わず、ただ静かに馬を走らせ続けた。
「私たちには子どももいるし……っていうか、急すぎたのよ。何もかも。
強引に結婚を迫っておいて、私の心を揺さぶるだけ揺さぶって……あんまりだわ」
怒りと困惑がまざったその声に、エンデクラウスは――突然、馬を止めた。
「……ディズィ。何の話をしているのですか?」
ゆっくりと馬上で体をずらし、優しく彼女の頬に手を添える。
その瞳は甘く、まるで囁くように彼女の意識を引き寄せる。
「な、なによ……?」
「何って……スキャンダルを起こしたんでしょう? どこかの令嬢と」
ディーズベルダはわざとらしく肩をすくめて、少し横を向きながら告げた。
皮肉交じりの声音には、怒りというより“呆れ”が混じっている。
エンデクラウスは、しばし無言。
やがてその長い睫毛の陰に、ふと影を落とすと――
「…………よく、わかりました」
ひどく落ち着いた声。
静かで、けれどどこか……含みを感じる響き。
(え……なに、その反応。やっぱり図星だった……!?)
と、思ったその瞬間。
ふいに、エンデクラウスがにこりと微笑んだ。
それはまるで、何かを吹っ切ったような、涼しげな微笑み。
(な、なんで笑ってるの!? その反応、こわっ!)
「……まぁ、今なら別に……離婚してもいいのよ……?」
ディーズベルダは不安をごまかすように呟いた。
けれどその返答は、彼女の口を完全に塞ぐものだった。
――唇が、触れた。
「んっ……!」
唐突に奪われた口づけに、目を見開く。
腕の中に引き寄せられ、あたたかく、やさしい感触に包まれる。
けれどそれ以上に、周囲の視線が気になる!
「ちょっ、ちょっと!? 騎士が……見てるのに!」
「見て見ぬふりをする訓練は、アルディシオン家の教育に含まれていますから」
しれっとした声が、耳元に落ちてきた。
「や、やめて! 一夫多妻制は趣味じゃないの!」
必死に抗議するが、エンデクラウスの返答は、ただひとこと。
「俺も、趣味ではありません」
「……え?」
思わず気が抜けたような声を出してしまう。
その瞬間、エンデクラウスは少しだけ口元を緩めて、いたずらっぽくささやいた。
「ディズィ、良い案があるのですが……」
「……な、なに?」
警戒心を強めつつ問い返す。
「新聞を読んで、1日分ごとに俺のスキャンダルが書かれていなければ……
ディズィからキスをください」
「はあああああああ!?!?」
馬の上でバランスを崩しかけるほどの大声が出そうになったのを、ぎりぎりでこらえる。
「な、何その罰ゲームみたいなルール!?」
「公平でしょ?」
「どこがよ!? しかも、何でこっちからキスなのよ!」
「“潔白の証明”には、“ご褒美”が必要でしょう?」
エンデクラウスが、さらりと言い放つ。
その表情はいつも通りの涼やかな笑み――だけど、言ってる内容はどう考えてもずるい。
「は、はいっ!?!?」
思わず声が裏返る。
馬の上でバランスを崩しかけながら、ディーズベルダは全力で彼の横顔を睨みつけた。
「……全部にスキャンダルが書かれていなければ。
俺を咎めないと、約束してください」
エンデクラウスの声は、あくまで穏やかで優しい。
けれどその眼差しは、真っ直ぐすぎて逃げ場がない。
「……っ」
言葉に詰まりながらも、ディーズベルダの思考はフル回転していた。
(そりゃ全部に何も書いてなければ咎める理由ないけど……。それを“わざわざ”言わせる?)
(この言い回し……完全に何か“ある”じゃない! つまり――)
(うっかり私、盛大にやらかした……!?)
胸の奥にひゅうっと冷たい風が吹いたような気がして、ディーズベルダは口元をぎゅっと結ぶ。
(でも、でも……このままじゃ新聞が読めない!)
一瞬でも気を抜けば、この男は本気で全部燃やしかねない。
「……わかったわ。でも、書き換えられてたら嫌だし。ちゃんと、私に渡して。今、ここで」
きっぱりと言い切ると、エンデクラウスは少しだけ目を細めた。
まるで、「交渉成立ですね」と言わんばかりに。
そして、無言のまま片手をゆるりと上げて、後方に控える騎士へ合図を送る。
「奥様。お預かりしていた新聞です」
騎士はすぐに馬を進め、整然と束ねられた新聞をディーズベルダに差し出す。
その動きもまた、無駄がなく、慣れた手つきで。
彼女はそれを受け取ると、ゆっくりと胸の前で抱えた。