40.エルキン村
(……やっと、解放された……)
ディーズベルダはふらふらと寝室から出る。
お腹が空きすぎて倒れそうだ。心なしか足もふらついている。
部屋の中では、エンデクラウスが深く眠っていた。
安心しきった表情で、肩を上下させながら静かに寝息を立てている。
(……もう、子どもみたいな顔して)
微笑ましく見つめてから、ドレッサーに置かれていた簡素なドレスを手に取る。
リボンも装飾も控えめな、動きやすさ重視の一着。
自分で手早く着替え、髪もざっとまとめて扉を開ける。
廊下に出ると、そこには見覚えのある人影が立っていた。
「……ジャケルさん」
声をかけると、彼は少し驚いたように振り返る。
その表情には、どこか疲労の色がにじんでいた。
「奥様、これを……」
そう言って、彼は手元のカートを押し出す。
そこには焼きたてのパンや、スープ、果物に包まれたサンドイッチがいくつか並んでいた。
「ああ……ありがとう……!」
思わず手を合わせそうになるほどのご馳走。
だが、空腹すぎて涙すら出そうだった。
「クラウディスは……?」
カートの端からサンドイッチを一つ取りながら尋ねると、ジャケルは落ち着いた声で答える。
「ジャスミンと、旦那様が王都から連れてこられたお医者様、そして信頼できる騎士たちと一緒に遊んでおられます。お部屋で、です」
「よかった……。無事で……」
心からの安堵が声ににじんだ。
しばしの沈黙のあと、彼女はふと、ジャケルの顔を見て言葉をかけた。
「ジャケル、大丈夫?……無理をさせたわね」
「いえ、このくらい……奥様のためです」
そう言って微笑む顔には、やはり疲れの色がある。
それでも、どこか満足げだった。彼もまた、無理を承知で動いていたのだろう。
(……けど、やっぱり。王都で何かあったなら――)
「ジャケル……少し、外の空気を吸ってくるわ」
「えっ?」
彼の問いに答える前に、ディーズベルダはサンドイッチを片手でつかみ、そのまま一口。
「はむっ」
ふわふわのパンに、香ばしい具材の香り。
幸せを感じつつも、足は既に外へ向かっていた。
(新聞でも、何か手がかりがあるかもしれないわね)
今のエンデクラウスは、“隠そう”としている。
でも、彼のためにこそ――自分はちゃんと、知っておきたい。
◇◆◇◆◇
まだ昼過ぎとはいえ、最果ての風は冷たく、草原を渡る風がディーズベルダの髪をやさしく揺らした。
馬の背に揺られながら見つめる先――
魔王城から最も近い村、“エルキン村”が少しずつ視界に入り始めていた。
この村は、最果ての荒れ地に隣接していることから、かつては魔物の襲撃に悩まされ続けていた。
そのため“辺境の危険地帯”という印象が根強く、人々が気軽に足を運ぶ場所ではなかった。
けれど実際のエルキン村は、その印象とはまるで異なる。
長年にわたりアルディシオン公爵家が支援を続けてきたこともあり、建物は質の良い木材と石で丁寧に建てられ、井戸や道路も整備されている。
外敵に備えた高い石壁に囲まれているため、一見すると要塞のようにも見えるが――
中に足を踏み入れれば、そこに広がっているのは穏やかな日常だった。
子どもたちの笑い声、鶏の鳴き声、薪割りの音や洗濯物を干す人々の姿。
どれも温かくて、どこか懐かしいような、平和の音。
(……まるで別世界みたい。ここが“最果ての村”だなんて思えないわ)
今では、大きな宿屋や商店も建ち、必要なものはひと通り揃っている。
最近はディーズベルダたちが頻繁に食料を買いに訪れている影響で、仕入れの量も品質も格段に良くなった。
(ここまでで、だいたい一時間。ちょうどいい距離ね)
馬を進め、馴染みのある宿屋の前に到着すると、手綱を柱に結びながら、扉を押し開けた。
中は暖かい灯りと、香ばしいパンの香りに包まれていた。
簡素だけど清潔で、木の家具が落ち着く雰囲気を作り出している。
カウンターの奥から、年配の宿主が顔を上げてにこりと微笑んだ。
「いらっしゃいませ。……あらまあ、奥様じゃありませんか!今日はおひとりで?」
「ええ、ちょっと……新聞を見たくて。すみません、置いてありますか?」
「もちろん!最近は領地の方もよくいらっしゃるので、うちも新聞の仕入れを増やしてるんですよ」
手を叩きながらうれしそうに話す宿主に、ディーズベルダは少しだけ声を潜めて続ける。
「あの……ここ最近の新聞、残っている分ってありますか? できれば全部。……多めに払うわ」
「まぁまぁ、そんなに遠慮なさらず!まとめてお持ちくださいまし」
すぐに棚の奥から数部をまとめて出してきてくれる宿主。
ディーズベルダは受け取った新聞をそっと手に取り、ざっと日付を確認する。
(……ちょうど、エンデクラウスが王都に着いた頃からのものが揃ってる。よし)
ぱら、とめくりかけて――すぐに思いとどまった。
(……ここで読んじゃだめ。落ち着ける場所じゃない)
ほんとはこのまま何か軽く食べて、暖炉の近くでのんびり新聞を読みたかった。
村のスープは美味しいし、アップルタルトも有名だ。
お腹はまだ空いている。でも――
(起きて、私がいなかったら……)
脳裏によぎるのは、ベッドで腕を伸ばして自分を探していた、あの人の寝顔。
それに……もしあの様子のまま起きたら、たぶん――
(……また、何かしでかしそうでこわい)
「あの、ありがとう。お世話になりました。また近いうちに」
新聞の束を胸に抱え、軽くお辞儀をすると、宿主はにこにこと笑みを浮かべながら手を振ってくれた。
「はいはい、お気をつけて〜! エンデクラウス様にも、ぜひよろしくお伝えくださいね!」
その言葉に軽く笑って、ディーズベルダも手をひらひらと振り返す。
そして、新聞を抱え直しながら、木の扉にそっと手をかけた。
ギィ、と木の扉を押し開けた、その瞬間――
そこに、まるで時間を計ったかのように、ひとりの男が立っていた。
「…………あ」
思わず、間の抜けた声が漏れる。
新聞の束を胸に抱えたまま固まるディーズベルダと、
腕を組んだまま、無言で仁王立ちしているエンデクラウスの視線が、ばちんと交錯した。
風が止まったような、完璧な沈黙。
(……これは、詰んだかもしれない)




