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39.普通じゃいられない

翌朝――。


窓から差し込むやわらかな陽の光が、まぶた越しにじんわりと届いてきた。

ディーズベルダは、ゆっくりとまぶたを開ける。


ほんの一瞬、自分がどこにいるのかわからなくなったが、温かなぬくもりがすぐに現実へと引き戻してくれた。


(……あったかい……?)


隣を見ると、すぐそこに彼がいた。

エンデクラウス・アルディシオン――


黒髪が少し乱れていて、目元にはまだ疲れの影が残っていた。

けれど、その表情はやさしく緩み、どこか安心しきったような穏やかな笑みを浮かべていた。


「おはようございます……ディズィ……。」


少し掠れた、けれど確かに愛しさのこもった声。

聞いた瞬間、胸の奥がほっと温まる。


「……おはよう。」


ディーズベルダも、微笑みを返しながら答えた。

けれど――次の瞬間、彼の腕がぎゅっと伸びてきて、自分を再び強く抱きしめてきた。


しかも、頬をすり寄せて、ふんわりと匂いを嗅ぐような仕草まで――


「ちょ、ちょっと……!」


予想外の甘えた行動に、さすがのディーズベルダも動揺する。


「あぁ……ディズィ……ディズィ……」


子供のように名前を繰り返しながら、頬に、こめかみに、額にと、ちゅっちゅっとキスを落としてくる。


(え、え……? エンデクラウス様……?)


(な、なんか様子が……いつもと違う……?)


エンデクラウスは、どちらかというと紳士的で、どんなに親密になっても節度を忘れない人だった。

だからこそ、こんなふうに抱きついてすり寄って、無邪気にキスを降らせるなんて――


(……こんなエンディ、初めて見る……)


戸惑いと、どこかざわつく胸の音。


「エンディ……?」


そっと名前を呼ぶと、返事の代わりに唇が重なった。

驚いたものの、やわらかく、あたたかい感触に思わず目を閉じてしまう。


「んっ……あの……」


小さく離れたタイミングでようやく息を整え、彼を見上げる。


「王都で……何かあったの?」


エンデクラウスはその問いにすぐには答えなかった。

ほんの少し、まぶたを伏せる。

その沈黙の間にも、どこか繊細な空気がふたりのあいだに流れた。


そして静かに、穏やかな声で答えが落ちてくる。


「……あなたの汚名を返上してきました。そして、半年後に開かれる王室のパーティーで、新たな爵位を授けるとも……」


語りながら、再びその唇が首筋に触れた。

そのまま耳たぶ、鎖骨、喉元――まるで置き土産のように、次々とキスが降ってくる。


(ちょっ……まって、どこまで……!?)


甘いけれど、やけに必死で、どこか乱れている。

そんな様子に、ディーズベルダは焦りと困惑を覚えた。


「いったいどんな交渉をすれば、爵位なんて……!」


声に詰め寄るような響きが混じる。


けれど、彼はその問いに対してすぐには答えず――


動きを止めて、ディーズベルダの耳元にそっと、低く囁いた。


「……もう、何があっても……離れることがないように。」


その一言に、ディーズベルダの心臓が大きく跳ねた。

声は甘いというよりも、切実で――どこか壊れそうに響いていた。


(……おかしい。エンディらしくない。なにかが……違う)


ディーズベルダは確かめるように、彼の頬に手を添え、そっとその顔を正面に向ける。

両の手のひらで包み込むようにして、まっすぐ、その瞳をのぞき込んだ。


「……エンディ。様子が変よ。ねぇ、ちゃんと教えて。――王都で……何があったの?」


その問いに、エンデクラウスの肩がわずかに震えた。


紫の瞳が一瞬揺らぎ、そして――


ほんのわずかに潤んで、次の瞬間、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。


「……えっ……!?」


思わず、ディーズベルダは瞬きを忘れる。


エンデクラウスが泣いている――それも、こんなふうに、何の言い訳もせずに、ただ涙だけを零すなんて。


ディーズベルダは、驚きと戸惑いで言葉を失った。


「……言いたくないです……」


小さく、けれどはっきりと聞こえたその声に、彼女の目が大きく見開かれる。


「え……!?」


「ここでずっと……一緒にいればいいだけです。何も言わなくていいでしょう……?」


まるで夢を見ている子供のような声だった。

あの理知的で紳士的な彼のものとは思えない、心細さのにじむ響きに――胸がきゅっと締めつけられる。


(な、何をしてきたのこの人……)


王都で彼が背負ってきたもの。

語らないことで守ろうとしているもの。

それが何かは分からないけれど、確かなのは――彼が、限界まで頑張ってきたということ。


だから、いまは――


「……と、とりあえず。朝食でも……」


気まずさを紛らわせるように、ディーズベルダは掛け布団をめくり、ベッドから抜け出そうとした。


が。


その瞬間、ぐいっと腰に腕がまわされ、体ごと引き戻されて――

「えっ」と言う間もなく、唇を塞がれた。


「ん……っ……!」


びっくりして目を開いたが、彼の瞳はとろんとしていて、やっぱりどこか熱っぽい。

泣いたあとのまぶたが少し赤くなっていて、その表情はどこか甘えたようで、いつになく無防備だった。


「エンディ……」


ディーズベルダは小さく息を吐いて、そっとその頭を撫でる。

乱れた黒髪を指先ですくい、ゆっくりと優しく梳くように。


「……とにかく、おかえりなさい」


その一言に、エンデクラウスはふわっと小さく笑って――そのまま彼女の胸元に額を押し当てた。


「……ただいま。帰りました……ディズィ……」


(……何が、彼をこんなに追い詰めたのだろうか。知りたい…。)


彼の言葉も、仕草も、何もかもが弱くて優しくて、でも切実で――

思わず胸が締めつけられる。


そしてそのまま、彼はディーズベルダに触れる手をそっと伸ばした。

声も言葉もなく、ただ彼の体温だけがすべてを語っていた。


(……ああ、もう。ほんとに……)


ディーズベルダは、小さくため息をつくように笑って――黙ってその手を受け入れた。


ゆっくりと重なる体温と、繰り返されるぬくもり。

甘く、静かで、どこか哀しい朝の、長い時間。


もう、何も言葉はいらなかった。

ただ、お互いのぬくもりがあれば、それで十分だった。

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