38.大変な自分より、さらに大変な人が現れた時。
誰もいないはずの研究室。
ずっとひとりで作業を続けていたはずの空間に、不意に響いた声。
「……幻聴?」
ディーズベルダが手を止め、ゆっくりと振り向く間もなく――
次の瞬間、ふわっ、と身体が宙に浮いた。
「きゃ――っ!?!?」
一気に視界が傾き、重力感覚が失われる。
思わず目をぎゅっとつむり、開けた瞬間――目の前に飛び込んできたのは、見慣れた黒髪と、夜空のように深い紫の瞳。
……ただし、今はやたらと眠たそうで、どこかぼんやりしている。
「寝ましょう。」
静かな、でも異様に真剣なトーンで、しれっとそう告げる声。
「っっ!! エ、エン……エンディ!?」
驚きで目を見開き、全身が一気にこわばる。
腕の中の彼の顔を凝視した瞬間、思わず言葉が詰まった。
「ほ、ほんもの?――というかあなた、顔……!」
驚きと焦りと、何か得体の知れない焦燥感が一気に込み上げてくる。
だって、エンデクラウスの目の下には自分よりもさらに濃い、くっきりとしたクマ。
頬はこけ、唇も少し乾いていて、髪もいつになく乱れていた。
(……えっ……私より……ひどくない!?)
思わず叫ぶ。
「あなたが寝てください!!今すぐに!!この私が看病しますから!!!」
その声が地下の研究室に大きく響き渡る。
道具や瓶の音すら止まりそうな勢いだったが、当の本人は――
まったく動じていなかった。
エンデクラウスはディーズベルダをお姫様抱っこしたまま、ふらっ、ふらっと不安定な足取りで歩き出す。
「え、ちょっ、やだちょっと!落ちるってぇ!!ふ、不安定!!」
「動かないでください……。本当に落としそうです。」
声は相変わらず冷静だけど、目元はピクピクしていて、明らかに限界ギリギリ。
「こっちは今、必死なんです……だから静かにしててください、ディズィ……。」
「ひぃぃぃぃっ!!」
ディーズベルダは小動物のようにジタバタしながらも、なぜか彼の腕の中から逃げようとはしない。
「まずは……寝室へ直行です。」
ふらつきながら階段を上がるエンデクラウスの腕の中で、ディーズベルダはふと我に返った。
「ちょ、ちょっと待って! クラウディスは!?」
「……ジャケルに預けています。問題ありません……」
かろうじて絞り出された声は、いつもの澄んだものとは違って掠れていた。
足取りも不安定で、重心が左右にぶれ、どこか夢の中を歩いているような様子だった。
(まさか……本当に限界状態じゃない……?)
「えっ……予定より早くない? 帰ってくるの……」
思わず問いかけると、エンデクラウスは歩みを止め、少しだけ顔を傾けて彼女を見つめた。
その顔を見た瞬間――ディーズベルダは、言葉を失った。
(私なんかより……ずっと無茶してる顔……)
「馬で……寝ずに……走りました……」
たったそれだけの説明。
でも、その一言に詰まっていたのは、彼がどれだけ必死だったかという事実。
「……ジャケルがいなかったのって、そのせい……?」
声が自然と柔らかくなっていた。
エンデクラウスは、何も言わず、ただ小さくコクリと頷いた。
言葉ではなく、沈黙で伝えるその仕草に、ディーズベルダの胸がぎゅっと締めつけられた。
(……どうして、そんな……そこまで……)
この人は、いつもそうだ。
策を練って、言葉では遠回しに詰めてくるくせに――
行動はあまりにも真っ直ぐで、無茶で、優しすぎる。
ふたりの足音が、石造りの廊下に小さく響いていく。
扉の前に控えていた騎士が、軽く礼をして、静かに寝室の扉を開いた。
「ごゆっくりお休みくださいませ、旦那様、奥様。」
エンデクラウスは頷くこともなく、ふらふらとした足取りのまま部屋へと入っていく。
寝室の中は、ランタンのやわらかな光に包まれていた。
寝台の上には、ふかふかの掛け布団が整えられていて、魔道具によって保たれた室温も心地よい。
そのままベッドの縁まで辿り着くと、エンデクラウスはディーズベルダをそっとおろした。
まるで壊れ物でも扱うような、やさしい手つきだった。
ディーズベルダは、置かれた拍子にぱたんと仰向けになったまま、ぽかんと天井を見つめる。
放心しかけたそのとき――視界の端に、彼がマントを外す姿が入った。
ボタンに手をかけ、淡々と服を脱ぎ始める。
(……え? ま、まさか……!? こんな限界状態で……!?)
思わず体を起こしかけて、慌てて止まる。
心拍数が跳ね上がり、顔がぽっと熱くなった。
だが彼は何も言わず、上着を脱ぎ、ベルトを外し、シャツのボタンを片手で外すと、
そのままスラックスを脱いで、下着姿になり――すんなりとベッドの反対側へまわりこむ。
そして、ぼすん、と音を立てて布団に潜り込んだ。
「えっ……?」
一拍遅れて、ディーズベルダがその動きに目を丸くする間もなく、彼はゆるゆると身体を向け――
ぎゅっ。
「……っっ!!?」
唐突に、何の前触れもなく、全力で抱きしめられた。
顔を胸元にぐいっと引き寄せられ、腕がしっかりと回される。
もはや逃げる隙など、ない。
「まって、なにこれ!? えっ、なに!?!?!?」
心の中で悲鳴を上げたが、身体は固まり、口も動かない。
しかも――
「……すぅ……すやぁ……」
「……寝たぁぁぁぁぁっ!?!?」
耳元で聞こえてくる寝息は、あまりにも幸せそうで、あまりにも無防備だった。
そっと顔をのぞきこめば、目の下にはくっきりとしたクマが残っているのに、表情はふわっと緩んでいる。
まるで、ようやく戦いを終えた兵士のように。
(……よっぽど疲れてたのね……)
抵抗しようにも、抱きしめる腕は驚くほどがっしりしていて、まるで鉄の枷のよう。
でも、不思議と――その腕の中にいると、心が落ち着いていく。
「まったく……どうしてあなたは、いつもそうなの……」
小さくため息をつきながら、ディーズベルダはそっと手を伸ばす。
少し乱れたエンデクラウスの髪に指を滑らせ、やさしく撫でる。
髪は風にさらされて乾いていたけれど、触れた指先に伝わる体温が、やけに心地よかった。
「……ほんとに……」
何度か頭を撫でているうちに、ディーズベルダのまぶたも、だんだんと重くなっていくのがわかった。
寝不足の脳が、安心したとたんに弛緩していく。
手が緩み、指先の動きが止まり――
(……もう少しだけ、撫でてから……)
そう思っていたのに、次の瞬間にはもう、彼の胸元に顔を預けたまま――
ディーズベルダも、すうっと眠りの底へと落ちていった。
寝室には、ふたりの寝息だけが静かに重なっていた。