表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

37/188

37.孤独な戦い

執事長ジャケルの姿は、屋敷のどこにもなかった。

ジャスミンの話では、血相を変えて飛び出していったそうだ。

手紙も置かず、行き先も告げず、ただ「馬を」とだけ言い残して。


そのため、屋敷内には今、ディーズベルダを止められる者は誰もいなかった。


「お、奥様っ……!もう少し、お休みになられては……!」


部屋の扉の前で、侍女のジャスミンが心配そうに呼びかける。

両手を胸元で組み、声を震わせながら何度も扉を叩く。


けれど、その声は分厚い魔道扉を越えて、彼女のもとには届いていなかった。


というより――聞こえてはいたが、ディーズベルダは無視していた。


(……わかってる。身体が限界なのは自分が一番わかってるわよ。)


部屋の奥、研究机に体を傾けるようにして作業を続ける彼女は、作業用の平民服の袖を肘までまくり、魔力導線に熱を加えていた。

指先はかすかに震えていて、それでも止めることなく、無言でパーツを組み合わせていく。


外から漏れ聞こえるジャスミンの声に、一瞬だけ胸が痛む。

けれど、それに応えることはできなかった。


(今ここで手を止めたら……誰がやるの?)


何かあったとき、相談できる相手がいない。

自分の知識を理解できる者もいない。

だから、自分がやるしかない。――誰にも頼れない、それが現実だった。


扉の向こうの心配も、孤独も、すべて抱えたまま。

ディーズベルダはただ、黙って手を動かし続けた。


「こっちの板は……もう少し絶縁層を厚くして……。ここに一枚噛ませて……」


つぶやきながら、目の下にうっすらクマをつくった顔で、半ば無意識に動き続ける。


机の隅には冷めかけたスープが置かれ、時おり、片手で匙をすくって口に運ぶ。

それだけが、彼女の食事だった。


睡眠時間は一日三時間。

ほとんど寝台にも戻らず、作業机の上にうつ伏せたまま仮眠を取る日々が続いていた。


(チフスそのものは、どうにか収束したけど……)


浄化された水の供給が行き届いたこともあり、今は感染者の数も激減した。

それ自体は喜ばしいことだった――けれど。


(雨水をそのまま飲んでる人がまだいる以上……油断したら、またすぐに新しい感染症が出る。今度はもっと別の……もっと手強いやつかもしれない。)


手を止めずに、彼女は黙々と作業を続ける。


(しかも、あの聖属性魔石……一度は“水”の中に使ったけど、あれは明らかに異常だった。)


すでに魔石は回収済みだ。

だが、予想を超えた回復効果に、ディーズベルダ自身が最も困惑していた。


ただの下痢や発熱の治癒にとどまらず――

かつて片目を失明していた人が、うっすらと光を取り戻した。

長年腰を痛めていた老人が、翌朝すたすたと歩き始めた。


奇跡のような出来事だったが、ディーズベルダはむしろ、背筋が冷たくなった。


(あれは……“治療”じゃない。“修復”よ。構造ごと、根本から再構成されていた。)


聖属性とは“命”の領域に干渉する魔法属性だ。

過剰な作用は、時に生物の平衡を乱す。


(綺麗な水を飲んだから、調子が良くなった。それで今は納得してもらえてるけど……。)


誰かが疑い始めれば、すぐに色々とバレて教会に見つかってしまう。

だからこそ、急いで“安全な水”を量産しなければならなかった。


「あと二台……いや、三台。最低限それだけあれば、主要区域には行き渡るはず……!」


工具を握る手に力がこもる。

目の奥には、疲れと焦り、そして責任感に燃える鋭い光が宿っていた。


止まってはいけない。

あの人がいない今、自分しかいないのだから。


そもそも――最初から、この地へ来るのは“私ひとり”のはずだった。

王命であり、処罰であり、追放であり、使命であり、孤独の始まり。


だからこれは私の仕事。

本来の仕事。

最初から、そういうものだった。


(……なのに、いつの間にか、私は“誰かがいてくれる”ことに甘えていたのかもしれない。)


エンデクラウスの手が差し伸べられた日々が、どれだけ自分を支えてくれていたのか。

それを失って初めて、痛いほど思い知る。


城の中には人がいる。騎士も、住民も、軍医も、使用人も。

けれど、自分の“知識”や“方法”を理解し、共に背負ってくれる者は――いない。


この手で握る道具の冷たさと、誰にも届かない思考の重さ。

周囲の「理解できないもの」に向けられる目線。

そのすべてが、じわじわと心をすり減らしていく。


(私が止まれば、すべて止まる。誰も代わりなんていない。私しか、この方法を知らないんだから。)


不安や疲労は、もう数えきれないほど蓄積されている。

けれど――誰にもそれを打ち明けることはできない。


強くあるしかなかった。

一人であることを、誰よりも早く受け入れたから。


けれど――それでも、胸の奥がふと、冷たい風に吹かれたように寂しくなることがある。


(……誰か、そばにいてくれたらって。……そんなこと、思っちゃいけないわね。)


そうやってまた、黙って手を動かす。


魔道具の回路に触れる指先に、微かに震えがあった。

それを誰も見ていないことが、余計に胸に堪える。


(私……すっかり誰かさんに懐柔されてたみたいね……。ほんと、不思議。)


心の奥から、ふとこぼれるような寂しさ。

それは、言葉にもならないほど静かで、切実な思いだった。


「エンディがいたら……怒りそうね……。」


肩に垂れた髪が汗で肌に張りつき、少しだけかゆい。

それすら気にならないほど、彼の皮肉交じりの声が脳裏に浮かぶ。


思わず口元がゆるむ。

まるで、本当にここにいるかのように、リアルで懐かしい声だった。


そのときだった――


「当たり前です。ディズィ……。」


「…………え?」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ