37.孤独な戦い
執事長ジャケルの姿は、屋敷のどこにもなかった。
ジャスミンの話では、血相を変えて飛び出していったそうだ。
手紙も置かず、行き先も告げず、ただ「馬を」とだけ言い残して。
そのため、屋敷内には今、ディーズベルダを止められる者は誰もいなかった。
「お、奥様っ……!もう少し、お休みになられては……!」
部屋の扉の前で、侍女のジャスミンが心配そうに呼びかける。
両手を胸元で組み、声を震わせながら何度も扉を叩く。
けれど、その声は分厚い魔道扉を越えて、彼女のもとには届いていなかった。
というより――聞こえてはいたが、ディーズベルダは無視していた。
(……わかってる。身体が限界なのは自分が一番わかってるわよ。)
部屋の奥、研究机に体を傾けるようにして作業を続ける彼女は、作業用の平民服の袖を肘までまくり、魔力導線に熱を加えていた。
指先はかすかに震えていて、それでも止めることなく、無言でパーツを組み合わせていく。
外から漏れ聞こえるジャスミンの声に、一瞬だけ胸が痛む。
けれど、それに応えることはできなかった。
(今ここで手を止めたら……誰がやるの?)
何かあったとき、相談できる相手がいない。
自分の知識を理解できる者もいない。
だから、自分がやるしかない。――誰にも頼れない、それが現実だった。
扉の向こうの心配も、孤独も、すべて抱えたまま。
ディーズベルダはただ、黙って手を動かし続けた。
「こっちの板は……もう少し絶縁層を厚くして……。ここに一枚噛ませて……」
つぶやきながら、目の下にうっすらクマをつくった顔で、半ば無意識に動き続ける。
机の隅には冷めかけたスープが置かれ、時おり、片手で匙をすくって口に運ぶ。
それだけが、彼女の食事だった。
睡眠時間は一日三時間。
ほとんど寝台にも戻らず、作業机の上にうつ伏せたまま仮眠を取る日々が続いていた。
(チフスそのものは、どうにか収束したけど……)
浄化された水の供給が行き届いたこともあり、今は感染者の数も激減した。
それ自体は喜ばしいことだった――けれど。
(雨水をそのまま飲んでる人がまだいる以上……油断したら、またすぐに新しい感染症が出る。今度はもっと別の……もっと手強いやつかもしれない。)
手を止めずに、彼女は黙々と作業を続ける。
(しかも、あの聖属性魔石……一度は“水”の中に使ったけど、あれは明らかに異常だった。)
すでに魔石は回収済みだ。
だが、予想を超えた回復効果に、ディーズベルダ自身が最も困惑していた。
ただの下痢や発熱の治癒にとどまらず――
かつて片目を失明していた人が、うっすらと光を取り戻した。
長年腰を痛めていた老人が、翌朝すたすたと歩き始めた。
奇跡のような出来事だったが、ディーズベルダはむしろ、背筋が冷たくなった。
(あれは……“治療”じゃない。“修復”よ。構造ごと、根本から再構成されていた。)
聖属性とは“命”の領域に干渉する魔法属性だ。
過剰な作用は、時に生物の平衡を乱す。
(綺麗な水を飲んだから、調子が良くなった。それで今は納得してもらえてるけど……。)
誰かが疑い始めれば、すぐに色々とバレて教会に見つかってしまう。
だからこそ、急いで“安全な水”を量産しなければならなかった。
「あと二台……いや、三台。最低限それだけあれば、主要区域には行き渡るはず……!」
工具を握る手に力がこもる。
目の奥には、疲れと焦り、そして責任感に燃える鋭い光が宿っていた。
止まってはいけない。
あの人がいない今、自分しかいないのだから。
そもそも――最初から、この地へ来るのは“私ひとり”のはずだった。
王命であり、処罰であり、追放であり、使命であり、孤独の始まり。
だからこれは私の仕事。
本来の仕事。
最初から、そういうものだった。
(……なのに、いつの間にか、私は“誰かがいてくれる”ことに甘えていたのかもしれない。)
エンデクラウスの手が差し伸べられた日々が、どれだけ自分を支えてくれていたのか。
それを失って初めて、痛いほど思い知る。
城の中には人がいる。騎士も、住民も、軍医も、使用人も。
けれど、自分の“知識”や“方法”を理解し、共に背負ってくれる者は――いない。
この手で握る道具の冷たさと、誰にも届かない思考の重さ。
周囲の「理解できないもの」に向けられる目線。
そのすべてが、じわじわと心をすり減らしていく。
(私が止まれば、すべて止まる。誰も代わりなんていない。私しか、この方法を知らないんだから。)
不安や疲労は、もう数えきれないほど蓄積されている。
けれど――誰にもそれを打ち明けることはできない。
強くあるしかなかった。
一人であることを、誰よりも早く受け入れたから。
けれど――それでも、胸の奥がふと、冷たい風に吹かれたように寂しくなることがある。
(……誰か、そばにいてくれたらって。……そんなこと、思っちゃいけないわね。)
そうやってまた、黙って手を動かす。
魔道具の回路に触れる指先に、微かに震えがあった。
それを誰も見ていないことが、余計に胸に堪える。
(私……すっかり誰かさんに懐柔されてたみたいね……。ほんと、不思議。)
心の奥から、ふとこぼれるような寂しさ。
それは、言葉にもならないほど静かで、切実な思いだった。
「エンディがいたら……怒りそうね……。」
肩に垂れた髪が汗で肌に張りつき、少しだけかゆい。
それすら気にならないほど、彼の皮肉交じりの声が脳裏に浮かぶ。
思わず口元がゆるむ。
まるで、本当にここにいるかのように、リアルで懐かしい声だった。
そのときだった――
「当たり前です。ディズィ……。」
「…………え?」




