36.私がやらなきゃ…。
【最果ての荒れ地・魔王城 東棟 / 軍医ベル・マチルダの部屋】
硬く冷たい石造りの廊下を抜けた先、薬の匂いがほんのり漂う一室。
棚には瓶や巻物がずらりと並び、整理された軍医室の中央で、ディーズベルダは木製の箱を丁寧に開けた。
その中には――朝露を含んだような、金色に光る葉。
つい先ほど、自らの手で育て上げたゴールデンリーフが、柔らかな魔道布に包まれていた。
彼女はそれを、白衣の男性にそっと差し出す。
「――どうぞ。無事に、育ちました。」
ベル・マチルダ軍医は目を見開き、思わず手元をまじまじと見つめる。
「……不思議です。正直、これが手に入るまで一ヶ月はかかると覚悟しておりましたが……。」
彼の言葉には、驚きと、やや戸惑いの色がにじんでいた。
だが、それでもすぐに心得たように頷き、慎重にゴールデンリーフを調合器具へと移す。
「今すぐ煎じて、治療薬を作ります。――この葉の成分は極めて強力なので、調剤は慎重に。」
「ええ、お願い。……そのうち、薬師も雇わなきゃいけないわね。」
ディーズベルダが肩を軽くすくめて言うと、軍医は苦笑しながら応じた。
「そうですね。私一人では、すべてをまかなうには厳しいかと……。」
そのとき、部屋の扉が勢いよくノックされたかと思うと、扉の向こうから慌てた声が飛び込んできた。
「奥様!!」
騎士が駆け込むようにして姿を現す。額には汗をにじませ、息もわずかに荒い。
「奥様、あの水……すごいです! すでに回復している者が何人も!」
「――水?」
軍医の表情がぴくりと動き、ディーズベルダの方へ視線を向ける。
眉間にしわを寄せ、不審そうに訊ねた。
(あっ……しまった……!)
ディーズベルダは一瞬、内心で悲鳴を上げる。
“聖属性魔石を使ったウォーターサーバー”――あれは、完全に秘密裏にやったことだった。
けれど、隠すべきだと即座に判断し、とっさに口を開く。
「え、ええっと……実はですね。」
ディーズベルダは一瞬視線を泳がせたが、すぐに微笑みながら話し出す。
言葉の選び方に細心の注意を払いながらも、あくまで貴族としての優雅な態度を崩さない。
「うちの家の者が、特効薬をほんの少しだけ届けてくださったの。それを水に溶かして配ったのよ、できるだけ均等になるように。」
口調は落ち着いていたが、心の中では冷や汗が流れていた。
(バレてない……はず。たぶん。きっと……いや、祈るしかないわ。)
軍医ベル・マチルダは、しばし無言のまま彼女を見つめた。
まるで彼女の言葉の裏を読むかのように、じっと観察するような視線。
(……やっぱり疑ってる!)
ディーズベルダは笑顔のまま内心で動揺しつつも、目をそらさずに視線を受け止めた。
やがて、軍医が静かに口を開く。
「……まぁ。これほどの薬を“知っている”というだけでも、並の令嬢ではございませんからな。奥様の言う通りなのでしょう。」
言葉は穏やかだったが、声の端には微かな皮肉とも取れる響きがあった。
ディーズベルダは間髪入れずに、朗らかな調子で言葉を重ねる。
「そうそう! アイスベルルク侯爵家の蔵書に偶然ね、古い薬草の本が残っていて!変な手書きの注釈とか、妙に細かい図解とかあって、ずいぶん読みづらかったけど……おかげで助かったわ。」
口調は明るく砕けているが、どこか一種の圧すら感じさせるほどのテンポと勢い。
軍医がこれ以上深く詮索する隙を与えない、絶妙な話術だった。
ベルは黙って彼女を見ながら、ゆっくりと頷く。
「……なるほど。アルディシオン公爵家にないものなどないと思っておりましたが……。」
そこまで言って、少し首を傾げるようにして付け加えた。
「侯爵家の蔵書というのも、侮れませんな。」
ディーズベルダは肩をすくめて、軽やかに笑った。
「たぶん、うち以外はもう捨てたのよ。ちょっと宗教じみてたし、“非科学的”って言われて、他所の家では疎まれたのかも?」
「……それは、あるかもしれませんね。」
ベルはそう言いながら、視線を手元に戻し、調剤を続けた。
ゴールデンリーフをすり潰し、香草と組み合わせ、慎重に分量を量るその手付きは熟練そのもの。
一方のディーズベルダは、その様子をじっと見つめながら、こっそり胸をなでおろしていた。
(よかった……これ以上突っ込まれずに済みそう。)
けれど、安心しきるにはまだ早い。
(……あとで、水の中に沈めてある“聖属性魔石”を回収しておかないと。万が一、成分を調べられたりしたら、さすがに言い逃れできないわ。)
聖属性の浄化力が水にじわじわと作用し、感染症の広がりを抑えているのだが……それはこの世界の常識からは大きく外れた技術だ。
(……それに、ウォーターサーバーもあと数台は作らなきゃ。あれ一台じゃ、とても回らない。)
頭の中で、必要な資材や設置場所の候補をざっと整理する。
(でも、あれ……なんて説明しようかしら。)
表向きの名前を考えるのも大切だ。領民や兵士たちが不安を抱かないように、わかりやすく、それでいて疑われにくい言い回しにしないと。
(“ろ過装置”って言っておけば、それっぽく聞こえるけど……)
思案しながら、少し眉をひそめる。
(……いや、だめだわ。本当にただのろ過だと思われたら……雨水や泥水まで入れられかねないわ。)
一見優雅に見えるディーズベルダの笑顔の裏で、思考は嵐のようにめぐっていた。
(魔石の管理も、運用も、全部私次第……でも、全部私がやらなきゃ。誰も知らないのだから。)
騎士も軍医も、公爵家から派遣されてきた者たちも、誰もその仕組みを知らない。
だからこそ、慎重に、そして速やかに動く必要があった。
ディーズベルダはそっと椅子を引き、静かに立ち上がる。
「では、私は少し席を外しますわ。後の調剤は、よろしくお願いいたします。」
「かしこまりました、奥様。」
軍医は深く頭を下げ、手元の作業に意識を戻した。
ディーズベルダはその背を見ながら、薄く微笑んで一礼し、部屋をあとにした。
その所作は気品に満ち、まるで何事もないかのようだったが――
扉の外に出た瞬間、その瞳に一瞬だけ鋭い光が宿る。
(……今のうちに、魔石を抜いておかないと。)
長いドレスのすそを少しだけつまみ、足取りを早める。
誰にも気づかれぬよう、館の奥へ、奥へと向かっていく。




