35.早く帰りたい
【アルディシオン公爵家・玄関ホール】
陽が高くなる前、アルディシオン公爵家の大理石の広間に、規則正しい足音が響いた。
上品な光沢を放つ床に、王の随行者たちの足元が映り込む。
その中心に、重厚な装飾を施されたマントを身にまとった王が、堂々とした足取りで現れる。
その場に一礼し、出迎えたのは黒髪の青年――エンデクラウス・アルディシオン。
その佇まいには一分の隙もなく、まるで彼こそがこの家の主であるかのような風格を放っていた。
「よく出迎えてくれたな、エンデクラウス。……公爵はどこだ?」
王の声音はいつものように穏やかだったが、その奥にある圧力は変わらない。
一国の主として当然の威厳だ。
エンデクラウスは頭を下げ、礼節を守ったまま、柔らかな声で応じる。
「父は、昨夜より少し体調を崩しておりまして。王のお姿を見ぬまま伏せっておりますこと、どうかご容赦ください。」
「……そうか。」
王はそれ以上何も言わず、視線を玄関ホールの先に向けた。
すぐにエンデクラウスが一歩進み、恭しく手を差し伸べて道を示す。
「どうぞ、賓客室へお通し致します。すでに茶の用意も整えております。」
その丁寧な誘導に、王は小さくうなずいた。
◇◆◇◆◇
ゆったりとした時間が流れる静かな部屋。
陽光を柔らかく取り込むレースのカーテンの向こう、茶の湯気が細く立ちのぼっていた。
王は深く腰を下ろし、用意された茶器に目を落としたあと、重い沈黙の幕を破るように言った。
「……スフィーラの件だがな。」
エンデクラウスの指先がわずかに止まる。
茶を注いでいた手が、ぴたりと止まるほど、その名は耳障りだった。
「……あれは、完全に我が娘の過ちであった。あれほどの失態、父として、そして王としても深く恥じておる。」
言葉には真摯さがあった。
王として、ではなく“親”としての謝罪――珍しいことだった。
しかし、エンデクラウスは表情を崩すことなく、静かに目を伏せてから答える。
「ご丁寧な謝罪、痛み入ります。ですが、あれは……私自身にも落ち度がありました。
王女殿下のご厚意を、うまくいなせなかったのは不徳の致すところ。」
「そうか……そう言ってもらえると、救われる。」
王はそう言いながらも、ほっと息を吐くような仕草を見せた。
だがその直後、エンデクラウスは丁寧な口調のまま、さらりと告げる。
「……ただ、今後、王女殿下とは極力、公的にも私的にもお目通りを避けられるよう、配慮いただけるとありがたく存じます。」
王の眉がわずかに動いた。
(やはり、そうくるか……)
だが、拒む理由もない。
「……うむ。わかった。今後、スフィーラをそなたの前に立たせるような真似はせぬ。」
そして、ふと懐かしむような声でつぶやいた。
「亡くなった皇后に、スフィーラはよう似ておってな……気づけば、つい甘やかしすぎていたのかもしれぬ。
子を持つと、どうしてもそうなる。……そなたも、いつか分かる時が来よう。」
エンデクラウスは一瞬だけ王の顔を見つめ、それから目を伏せて微笑んだ。
しかしその笑みには、どこか冷えたものがあった。
「……子など、所詮“家”のために生み出される“道具”に過ぎません。
感情を抱くとすれば、それは手入れを怠らぬための“愛着”のようなものでしょう。」
王の表情がわずかにこわばった。
「……ふむ。さすがはアルディシオンだな。血筋は、やはり濃いようだ。」
そう言いながらも、王の瞳にはほんのわずか、どこか寂しげな色が浮かんだ。
そして、ふと視線を切り替えた。
「……さて、何か望むものはあるか? 王として、礼のひとつもせねばな。」
エンデクラウスは、ほんの一瞬だけ目を閉じて考える素振りを見せる。
その表情には慎重さと計算がにじむ。
「……願うことがあるとすれば――」
茶をすするふりをして間を取り、静かに言葉を継ぐ。
「王家に忠義を誓っている者のうち、心ならずも“監視”という立場に置かれている者たちが、我が家の中に混じっております。
彼らの存在は、今後の働きに些細な“軋み”を生むかと。……ご配慮いただければ幸いです。」
王は一瞬だけ表情を動かしたが、すぐにうなずいた。
「……わかった。善処しよう。」
その答えに、エンデクラウスは深く頭を下げる。
「恐悦至極に存じます。」
王はやがて立ち上がり、ゆっくりとマントを翻す。
「それでは、これで失礼する。」
「お見送りいたします。」
エンデクラウスは無言で後ろに従い、玄関まで王を見送る。
その背中を見つめながら、彼の心にはひとつの言葉が浮かんでいた。
(“道具”である以上――利用価値を示し続けなければならない。……だが俺は、その枠の外へ出るつもりだ。)
その決意を、表に出すことはない。
王を乗せた馬車が遠ざかり、門の外へと消えていく。重い扉が閉まる音とともに、広い玄関前に、ようやく静けさが戻った。
エンデクラウスは一瞬だけ目を伏せ、そして顔を上げる。背筋を伸ばしたまま、乳母であり、侍女長のスミールに声をかけた。
「よし、スミール。準備はできているな?」
スミールがすぐにひざを折り、落ち着いた声で答える。
「はい旦那様。お申しつけ通り、すべての荷は馬車に積み込み済みでございます。」
「頼む。俺は馬でクラウディスと先に帰る。……担ぎ布を用意してくれ。」
「かしこまりました。」
スミールがすぐに動き出すのを見届けながら、エンデクラウスは小さく息をついた。
(早く……帰らなければ。ディズィのもとへ。)
足が自然と厩舎のほうへ向かう。心はすでに、最果ての地にいるディーズベルダのそばにあった。




