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34.心理劇

早朝、アルディシオン公爵家——本館・執務室


朝靄がまだ薄く残る時間、重厚な扉が静かに開かれる。

外から差し込む光が、きっちりと整えられた執務室の中にすべり込むように広がった。


部屋の奥、豪奢な椅子に背筋を伸ばして座っていたのは、現・アルディシオン公爵——ディバルス・アルディシオン。

完璧な仕立ての軍服に、冷えた鋼のような視線をたたえた男は、目の前に立つ息子を見上げていた。


その真正面に、まっすぐ立つ青年——エンデクラウス。

黒髪に朝の光が差し、うっすらと影をつくる。昨夜からろくに眠っていないのが、肩の張り詰めた様子と、わずかに青白い顔色に表れていた。


「……つまり、すべて終えた、というわけだな?」


ディバルスの低い声が部屋に響く。

彼は顎に手を当て、感心したようにひとつうなずいた。


「なるほど。うまくやったな。王室に“借り”をつくっておくのは、実に賢いやり口だ。……それに、半年後には新しい爵位まで約束されたとはな。たいしたものだ。」


その言葉に、エンデクラウスは小さくうなずいた。


「……はい。」


言葉少なに返しながらも、瞳の奥では別の感情が渦巻いていた。


(あの瞬間は……本当に、吐き気がした。)


昨日の帰路のことを思い出すたび、胸の奥がざらつく。

スフィーラ王女が差し出した甘ったるい香りの手巾——あれが媚香だったと気づいたときには、すでに体が重くなっていた。意識を半分失いながら、まるで操られるように連れていかれた王女の私室。その先で――なんとか未遂で終わったが、あれはもう、ほとんど“事故”だった。


(俺の体に……ディズィ以外の女が触れたなんて……)


あれほどの屈辱は、人生で初めてだった。

喉元に刺さったままの棘のように、思い出すだけで嫌悪がせり上がる。


そんな息子の心中など露ほども見せぬまま、ディバルスは淡々と告げた。


「……ディーズベルダ嬢が、ただの平凡な侯爵令嬢であれば。お前の正統な“妻”になっていたのは、王女のほうだった。……そこは、理解しているな?」


エンデクラウスの眉がぴくりと動く。

少し間を置いて、ゆっくりと口を開いた。


「……あれは、“家を食いつぶす女”ですよ。父上。」


ディバルスは、ふっと片眉を上げ、薄く口角を持ち上げた。

その笑みはあたたかさを含まず、ただ計算の結果に満足する、冷たい貴族の笑みだ。


「ふむ……王女の私室は、さぞ華やかだったのではないか?」


エンデクラウスはわずかに眉を寄せ、皮肉をにじませた笑みを浮かべる。

丁寧な口調のまま、冷静に答えた。


「ええ、期待を裏切らない贅沢さでした。調度品ひとつ取っても、どれも一級品。床から天井まで“金”が張り巡らされているような部屋でしたよ。……維持費だけで家計が傾きそうです。」


それは、もはや笑い話でも冗談でもない。

王女スフィーラの“美しい顔の裏”にある、底の見えない浪費癖を見て、エンデクラウスは心からそう思った。


ディバルスはくつくつと喉を鳴らす。


「そうか。――ならば、ディーズベルダ嬢に救われたな。」


「……はい。」


その言葉に込められた真意は、ディバルスには届かない。

エンデクラウスは短く答えながら、胸の奥のざらつきを押し殺した。


しかし、ディバルスは鋭い目で息子の表情を読み取ろうとするように、少しだけ前かがみになり、問いかけた。


「……まさか、“情”があるわけではないだろうな?」


空気が一瞬、ぴたりと固まる。


エンデクラウスはその場から一歩も動かず、目を細めた。


「……まさか。」


息を吸い、言葉を整える。

そして、慣れた調子で続けた。


「ディーズベルダは、あくまでアルディシオン公爵家の“道具”です。――そうでしょう、父上。」


そう言った瞬間、喉の奥がかすかに痛んだ。

だが、それを一切表に出すことなく、涼しい顔を保った。


ディバルスは愉快そうに笑う。

その笑いには、父親らしい情など欠片もなかった。


「ははは! そうだな! お前が情を持つなど……ありえんな!」


エンデクラウスは笑みに応じることなく、ただ静かにうなずく。


「ええ、俺は“最高の道具”だと自負していますよ。」


その声音には冷たさと、わずかな皮肉が滲んでいた。


「どうか、俺の情など気になさらずに。父上はただ、これから入ってくるであろう莫大な財産を、どう有効に使うかをお考えください。」


言葉はあくまで丁寧だが、そこには確かな“棘”があった。


ディバルスはその含みのある台詞に、気づいたのか気づかなかったのか――どちらにせよ、顔色ひとつ変えずに答えた。


「ふふ、そうだな。お前がいれば、我が家は安泰だ。」


立ち上がり、椅子の背を軽く叩きながら続ける。


「アルディシオン公爵家は、形式上はエンドランスに継がせる予定だ。だが、お前には今後も裏から家を支えてもらう。」


「……承知しました。父上。」


エンデクラウスは恭しく頭を下げる。

完璧な所作、どこにも乱れはない。だが、その胸の奥では何かが静かに崩れそうになっていた。


ディバルスが懐から銀の懐中時計を取り出し、蓋を開く。

小さく“カチリ”と音が響く。


「……そろそろ王が来る時間だな。行け。」


「はい。」


一礼し、エンデクラウスは踵を返す。

重く閉ざされた扉へと歩みを進め、無言のまま、部屋を後にした。


扉が閉まる寸前、その隙間から朝の光が差し込み、彼の影を薄く照らしていた。


(――俺は“道具”だ。そう言い続けていれば、きっと父上は満足するだろう。)

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