33.チフス
会議室の扉が閉まると同時に、ディーズベルダは姿勢を正し、真正面に座る軍医へと視線を向けた。
「……結論から言うわ。あの病気の正体は、“チフス”よ。」
軍医が目を細める。「チフス……ですか?」
「ええ。王立図書館で昔みたのを思い出したのだけど、症状の一致率は高い。高熱、倦怠感、腹痛、赤い発疹。汚染された水が原因で広まるのが特徴なの。」
室内に緊張が走る。
「じゃあ……やはり、あの雨水が原因ですか?」
「可能性は高いわ。水を直接飲んでいた住民たちを中心に症状が広がっているなら、十分ありえる。」
軍医は深く頷いた。
「……納得がいきます。あの症状、ただの風邪や食あたりにしては急激すぎた。特に赤い発疹の出方は、私も初めて見るものでした。」
「問題は、治療方法よ。」
ディーズベルダは手元に用意していたメモを見せる。
「ゴールデンリーフ。炎症を抑える効果と、強い抗菌作用を持つ薬草。これがあれば、症状の進行を止めることができるはず。」
「……しかし、それを手に入れるには、採取から抽出、調合まで、数日はかかります。」
軍医の言葉に、ディーズベルダはうなずく。
「わかってる。でも、やるしかない。時間との勝負よ。」
一瞬、室内が重苦しい空気に包まれる。誰もが口を閉じ、深刻な事態を飲み込んでいた。
やがて、軍医が静かに立ち上がる。
「薬の調合に必要な素材や設備は、すべてこちらで手配します。準備が整い次第、治療の準備を進めましょう。」
「お願いするわ。私もすぐ、研究室でできる限りのことを探ってみる。」
◇◆◇◆◇
会議が解散した後、ディーズベルダは軍医の報告を脳裏に反芻しながら、急ぎ足で石造りの階段を降りた。
足音だけが、薄暗くひんやりとした空間に響く。
(……この土地は、もともと先にいた転生者が発展させた場所。なら、感染症の対策も、きっと何かしら記録が残されてるはず……!)
そう思いながら研究室へ足を踏み入れると、そこに並ぶ魔道具たちが、かすかに光を放ち、彼女を迎えるように静かに明滅していた。
ディーズベルダはすぐに作業机へ向かい、棚から分厚い記録ノートを引き抜く。古びた革張りの表紙が、しっとりとした手触りで指先にまとわりついた。
パラリ——。
慣れた手つきでページをめくりながら、彼女は唇を引き結ぶ。
(ない……ないわね……。)
記された内容は、設備の構築記録や食料生産システムの開発、初期人口の調整計画など、多岐にわたるものばかりだった。
「想像するのよ……一から人間を生み出したのなら、感染症の発症も計算に入れていたはず……問題が起きるとしたら、どの時点……?」
自身に問いかけながら、彼女はふと、記録棚の下段に目を向ける。そこには、ナンバリングされた多数のノートが整然と並んでいた。
(このあたりかしら……"No.46"……)
引き抜いてみると、中身は薬草のデータ集だった。
「……違ったわね。」
一度は閉じかけた手を止める。ふと、閃きのようなものが脳裏をよぎった。
(薬草の研究がここなら……薬として加工した記録は、その後のナンバーかも?)
直感に従い、次々にノートを手繰る。そして、ついに見つけた。
《抗菌》という赤字でタイトルが記されたページ。
「……あった。」
思わず息を呑んだ。
そこには、かつてこの地で流行した複数の感染症と、それに対する処置法が記されていた。植物由来の治療薬に加え、何かを強調するように、紙の余白に走り書きのような文字が残されている。
《……だが、神聖力の方が早い》
「……えっ?」
ディーズベルダは目を瞬かせた。
それはまるで、現代科学に限界を感じた誰かが、魔法的な力への解答にたどり着いたかのような痕跡だった。
(神聖力……。でも、今このタイミングでそんな都合よく聖属性を扱える人なんて……あ。)
彼女の思考が、ひとつの答えにたどり着く。
「……あのランタン……!」
ディーズベルダはすぐに研究机の側に駆け寄り、作業棚にしまっていたランタンの設計ノートと試作品を取り出す。ノートを確認しながら、手元のコマンドパネルに手を滑らせる。
(ランタン、再錬成開始——!)
装置が低く唸りを上げて稼働を始めた。まばゆい光とともに、錬成されたランタンがゆっくりと浮かび上がり、錬成陣が書かれた床に静かに着地する。
「間に合って……お願い……!」
ランタンをそっと手に取り、手袋を装着する。
彼女は一度大きく息を吸い、緊張の面持ちで、慎重に蓋を外していった。
カチリ、と小さな音がして、内部の魔石が現れる。
淡く柔らかな光を放つその魔石は、聖属性を宿していた。 まるで、誰かの祈りが結晶になったような、神聖で穏やかな気配。
「……まさか、こんな使い方をするなんて思いもしなかったわ……」。
でも、いま大切なのは迷っている時間じゃない。
(……今考えられる可能性としては、この方法しか思いつかない。)
覚悟を決めるように、彼女は魔石を取り出す。
慎重に魔石を持ち、ウォーターサバーの中に入れておき、研究室の扉を勢いよく開く。
「だれか! 騎士を呼んで!」
その声に、すぐさま控えていた兵士たちが駆け込んできた。
「これを——この装置を外に住む人達がいるところに設置して! 感染症が出ているエリアに運んで。水は魔王城の水道水を満たして、住民たちに飲ませてちょうだい!」
騎士たちは魔石と指示を受け取ると、互いに視線を交わして頷き、すぐさま準備にかかった。
だがその直後——
「奥様!」
一人の騎士がディーズベルダの前に立ちはだかるようにして、真剣な声で言った。
「……これ以上は、私どもが対応します。奥様が感染されたら、私たちの首が飛ぶだけではすみません!」
「でも、私も現場を——」
「どうか、ここでお待ちください。今は、私たちに任せてください!」
その言葉に、ディーズベルダは一瞬、言葉を失った。
目の前の騎士の顔は固く、けれど真っ直ぐだった。自分を心から守ろうとしている意思が、痛いほど伝わってくる。
「……わかったわ」
渋々ながらも、彼女はその場にとどまることを選んだ。
(お願い……効果…あってちょうだい…。)




