32.感染症
最果ての荒れ地——魔王城の地下にある研究室。
カチリ、と最後のネジを締め終える音が室内に響いた。
「……やっと、作り終わったわ。」
ディーズベルダは深く息をつき、完成したウォーターサーバーをじっと見つめる。魔道と錬成技術を融合させた、彼女の完全オリジナル発明だった。数日かけて素材を選び、部品を組み、構造を調整し、ようやく形になったその装置には、彼女の知識と工夫のすべてが詰まっている。
(これで、飲み水問題はひとまず解決できるはず……)
その安堵も束の間だった。
「奥様、大変です!!」
扉が勢いよく開き、ジャスミンが駆け込んでくる。その顔は青ざめ、肩で息をしている。
「ジャスミン!? どうしたの?」
ディーズベルダは反射的に振り返り、彼女の表情を見て背筋が冷たくなる。
ジャスミンがここまで取り乱すのは、そうあることではない。
(まさか……何か起きた?)
「住民の間で——感染病が発生しました!」
「……なんですって!?」
その一言に、ディーズベルダの表情が一気に強張った。目を見開き、心臓がドクンと嫌な音を立てる。
(やばい……本当に、やばい……!)
「詳しく、今すぐ状況を教えて!」
すぐさま思考を切り替え、立ち上がる。焦ってはいけない。けれど、時間もない。
ジャスミンの後ろから騎士が現れ、緊迫した表情で状況を説明し始める。
「高熱、倦怠感、腹痛、それに発疹も確認されています。最初は風邪のようでしたが、急速に悪化して……。」
「他には?」
「発症した者は皆、赤い斑点が現れ、やがて意識が朦朧とし……まるで、何かに取り憑かれたかのようだと噂されております。」
ディーズベルダは眉をひそめ、頭の中で次々に症状を照らし合わせる。
(発熱、発疹、腹痛、倦怠感……まさか、コレラ? それともサルモネラ?いや、赤い斑点……?)
「医者は……なんて?」
「……王都で一度だけ見たことがあるそうです。貧民街で流行し、脱水によって死亡した者が多かったと……ただ、正式な診断名までは不明で……」
「脱水症状……!」
その言葉に、ディーズベルダはハッと目を見開いた。
(そうだ、脱水が原因なら……早く処置しないと……!)
「ちょっと……待ってて。」
ディーズベルダは手近な椅子に腰を下ろし、両手を組み、ぎゅっと握りしめた。
胸の中に湧き上がる焦燥を、ぐっと飲み込み、強引に思考を切り替える。
(冷静にならなきゃ……状況を正確に見て、判断するのが私の役目……)
最悪の事態は、まだ防げるかもしれない。だがそのためには——もっと確かな情報が必要だ。
(……心の図書館へ行かなきゃ)
ディーズベルダは即座に決意を固め、踵を返すようにして研究室を飛び出した。
「ジャスミン、来て!」
その声に、扉の前で待機していた侍女がすぐに反応する。
「はい!」
二人は駆け足で城の廊下を渡り、寝室へと向かう。
「奥様、まさかまた“あちら”へ……?」
「ええ。考える時間が欲しいの。エンディとの秘密よ。だから、誰にも言わないで」
寝室に着くと、ディーズベルダはベッドの縁に腰を下ろし、ゆっくりと深呼吸を繰り返す。
頭の中を整理し、感情を押し殺して、ただ「探さなければ」という使命感に集中する。
(お願い、今回もちゃんと答えが見つかって……)
まぶたを閉じると、視界が徐々に闇に染まっていき——
気づけば彼女は、また“あの場所”に立っていた。
——心の図書館。
誰の気配もない広大な館内に、等間隔で整然と並んだ書架。
まるで時間が止まったかのような静けさと、どこか落ち着いた空気が漂う。
けれど今のディーズベルダには、この穏やかさすら苛立たしい。
(落ち着いて……まずは“感染症”のカテゴリを……)
迷うことなく彼女は歩を進める。
すでに何度も来ているはずなのに、今回は重く冷たい空気が心を締めつける。
指先で本の背表紙をなぞりながら、一冊ずつ丁寧に確認していく。
(高熱、倦怠感、腹痛、発疹——)
やがて、一冊の本に目が留まった。
『細菌と感染症のすべて』
(これ……!)
即座に手に取ってページをめくり始める。
紙の手触りが懐かしく感じるほど集中しながら、該当する症状を必死に探す。
「高熱……倦怠感……発疹……」
彼女の視線が走るたび、ページがめくられていく。
そして、いくつかの病名が候補として浮かび上がる。
「コレラ……でも、発疹の症状は薄い……違う」
「発疹チフス……これはシラミが媒介? 違う……」
焦る心を抑えながら、ディーズベルダはさらにページをめくる。
(早く……時間がないのに……)
そして、目があるページに吸い寄せられた。
「……腸チフス?」
その症状はまさに——高熱、倦怠感、腹痛、そして赤い斑点。すべてが一致していた。
「……間違いない。これだわ」
ディーズベルダは緊張で乾いた唇をかみ締めながら、震える指でさらに情報を追った。
《腸チフス:汚染された水や食事から感染。特に衛生環境の悪い場所で流行。進行すれば意識障害や臓器不全を招く。》
(水……!)
すぐに脳裏に浮かぶのは、雨水を飲料水として使用していた住民たちの姿。
彼女がいくら沸騰や処理の重要性を伝えても、「面倒だ」と軽んじられていたこと。
(……やっぱり、あれが原因……!)
目を見開き、再びページをめくる。
《治療:水分補給、栄養、そして抗生物質》
(でも……この世界には抗生物質なんてない)
絶望的な一文に、一瞬だけ心が揺れた。
けれど、すぐに彼女の目は次の記述に止まった。
《一部の天然薬草には、強い抗菌作用を持つものがある》
「……薬草!」
目の色が変わる。
そして、次のページに紹介されていたのが——
《黄金の葉:抗菌作用を持ち、炎症を抑える効果あり。感染初期の症状緩和に有効》
「……これね!」
その瞬間、彼女の表情が希望に満ちたものに変わった。
(やった……助けられる……!)
ディーズベルダは本を勢いよく閉じると、再び書棚へ戻して立ち上がる。
(一刻も早く、現実に戻らなきゃ……!)
——最悪の事態を、何としてでも防ぐために。




