31.暴走するクラウディス
エンデクラウスのシャツが肌を滑り落ち、パサリと乾いた音を立てて床に沈んだ。
(クラウディス!!)
すると、その声が、まるで届いたかのように——
「……うぇっ……えっ……えっ……」
クラウディスが、声を震わせながら小さく泣き始めた。生まれて初めての、本気のぐずりだ。
その音にスフィーラは眉をひそめ、苛立ちを隠そうともせず顔をしかめた。
「うるさい子ですわね!!」
怒気を含んだ鋭い声が部屋に響く。
——次の瞬間。
「うええええええええええええええん!!」
クラウディスの泣き声が、甲高く部屋中に反響した。
それと同時に、空気がピキリと音を立てたかのように一変した。
バチバチと、見えない何かが弾けるような魔力の脈動。 部屋の中の水差しが震え出し、カーテンが風もないのに膨らみはじめる。
「な、なんですの……!?」
スフィーラが驚愕の声を上げたその瞬間——
ザバァァァァァァン!!
まるで空間そのものが割れたかのように、膨大な量の水が、クラウディスの周囲に渦巻き始めた。
それはまるで、一匹の龍が咆哮と共に目覚めたような光景。
水の塊が天井まで巻き上がり、暴れ狂う蛇のように部屋を駆け巡る。豪華な絨毯は一瞬で水浸しになり、壁に掛けられていた絵画や装飾品が次々と吹き飛ばされる。
ドンッ!!
水の圧力で、扉が内側から叩き飛ばされた。
廊下の使用人たちが次々と叫び声を上げ、騎士たちが慌てて駆け込んでくる。
そして——
「お、おのれ、何事だこれは!!」
怒鳴りながら入ってきたのは、グルスタント王その人だった。 びしょ濡れのマントを翻し、険しい表情で辺りを見回す。
その視線が、ぐしゃぐしゃに濡れたシーツの上、半ば服を乱した状態で倒れているエンデクラウスへと注がれる。
その隣では、クラウディスが地面に座りながら泣きじゃくっていた。 その体からあふれ出す魔力の奔流が、なおも部屋を揺らし続けている。
「な……なにを……しておるのだ……スフィーラよ……」
王の声は、怒りと困惑が入り混じった、かすれたような低音だった。
「ち、違っ……これは、わたくしでは……その……っ」
スフィーラは必死に言い訳しようとするが、びしょ濡れで髪も乱れ、どう見ても「現場の当事者」そのものだった。
臣下たちはあまりの光景に言葉を失い、王の背後に控えた護衛騎士たちすら息を呑んで立ち尽くす。
王女の私室に響き渡るのは、まだ泣き止まないクラウディスの声と、滴る水音だけだった。
——その光景は、王宮の空気すら変える衝撃として、静かに、しかし確実に広がっていく。
騒ぎの中心にいたクラウディスは、まだ肩を上下させながら、くすんくすんと小さく鼻を鳴らしていた。小さな体はすっかり濡れており、その手足は震えている。
そんな彼を、エンデクラウスはゆっくりと、まるで壊れ物を扱うかのように優しく抱き上げた。
「……よくやった。怖かったね……でも、もう大丈夫だよ。」
濡れた髪をそっと撫でながら、彼は穏やかな声でクラウディスに語りかける。
「よく頑張った……偉い子だ。」
赤子の頬にそっと唇を寄せるようにしながら、優しくあやし続けるエンデクラウスの瞳には、確かな安堵と深い愛情が滲んでいた。
暴走した魔力が、少しずつ鎮まり、空気から湿気が引いていく。
やがてクラウディスは、エンデクラウスの胸元に顔を埋め、安心したように小さく息を吐く。
「……もう落ち着いていい。パパが、そばにいるから。」
その囁きに応えるように、小さなまぶたがふわりと閉じられた。
クラウディスはそのまま、父の腕の中で眠りについた。
それはまるで、何事もなかったかのように穏やかで、澄んだ寝息だった。
「……布を!」
王の声が鋭く響き渡る。
すぐさま侍女が駆け寄り、白布を数枚王に差し出す。その布をエンデクラウスに手渡すと、王は厳かに、しかし感情を抑えきれぬような声で続けた。
「近衛、聞き届けよ!」
剣の鞘音が室内に緊張を走らせる。
「王女スフィーラ・グルスタントを、白き塔へ幽閉せよ。」
「っ……な、何を……!? いや!!」
スフィーラは目を見開き、真っ青な顔で王にすがりつこうと駆け寄った。
「お父様!!違いますの!!誤解ですの!!これは、違うのです!!お父様!!お父様ぁああああ!!」
しかし、彼女の腕を近衛が冷たく押さえ、扉の外へと連れ出していく。金髪が乱れ、必死の叫びが廊下にこだました。
「待ってぇ!!エンデクラウス様……!!」
その声に、王はただ重く瞼を閉じ、静かに、低く呟いた。
「……すまなんだ。あれに、いったい何と申せば良いのか……。」
心底から疲れたような声音だった。
エンデクラウスはそっと深く頭を下げる。
「陛下、また後日、落ち着かれました折に、ゆるりとお話を頂ければ幸いに存じます。」
「うむ……そう致そう。明日、アルディシオン公爵家に参るゆえ、そなたも心得ておけ。」
「御意にございます。心よりお待ち申し上げております。」
そのやりとりが終わる頃、ようやく布が運び込まれた。
エンデクラウスは、静かにクラウディスを抱え直し、差し出された白布を自らの体に巻き付ける。濡れた衣を隠すための、最低限の処置だった。
「この者を、控えの間へ通せ。」
王の言葉に、近衛たちが一礼し、エンデクラウスの道を開ける。
彼は軽く頭を下げた後、まだ眠るクラウディスを優しく胸元に抱いたまま、濡れた足音をゆっくりと響かせながら部屋を後にした。
◇◆◇◆◇
夕暮れの陽が、アルディシオン公爵家の広大な敷地を赤く染めていた。西の空に沈む太陽が、長く伸びた影を廊下に落とす。
王城から戻ったエンデクラウスは、静かに自室の扉を開ける。足元にはまだ、王城で水を浴びた痕跡がわずかに残っていたが、それを気にする素振りも見せず、クラウディスを大事そうに腕に抱えたまま、無言で部屋に足を踏み入れる。
室内にはあの殺風景な静けさが戻っていた。分厚いカーテン越しの夕日だけが、金色の光をぼんやりと落とし込んでいる。
後ろからスミールが静かに入室し、そっと声をかけた。
「お帰りなさいませ、旦那様……。大変でございましたね。」
その口調はいつになく慎重で、同時に、主を心から気遣うような柔らかさがにじんでいた。
エンデクラウスは、腕の中で眠るクラウディスの額にそっと触れ、わずかに息をつく。
「……全くだ。」
短く、低い声だったが、そこに込められた疲労の色は濃かった。
「医者を呼べ。クラウディスの体に異常がないか、念のため診てもらいたい。」
「かしこまりました。」
スミールは深く一礼し、すぐに部屋を後にした。
エンデクラウスは静かにクラウディスをベッドの上に横たえ、薄い毛布を掛けてから、窓辺に歩み寄る。夕焼け空を見上げるその横顔には、いつもの余裕も、皮肉めいた微笑もなかった。
(……今日のうちに発っていれば、1日でも早くディズィの顔を見られていたはずなのに。)
思わず、肩が落ちる。
王城での一件は想定外だった。完全に。あの王女の執念を、甘く見ていたのかもしれない。
「……ディズィ。」
彼の口から、愛しい名がぽつりと零れる。
触れたくて、声を聞きたくて、眠る彼女の横で心地よい時間を過ごしたくて——それなのに。
すべては、水に流されたように遠ざかっていく。
遠くで、足音が再び近づいてくる。
医者の到着を告げる気配を感じながら、エンデクラウスはもう一度、静かに目を閉じた。
(……明日、王との話が済み次第——必ず帰る。どんな手を使ってでも。)