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30.媚香

エンデクラウスの背が、玉座の間からゆっくりと遠ざかっていく。扉が音もなく閉まると同時に、スフィーラの中で抑えきれない感情が爆発した。


「お父様っ!!」


振り向いた王の前に、スフィーラが一歩、二歩と前へ詰め寄る。青く澄んだ瞳は、怒りに揺れ、頬は熱く紅潮していた。


「どうして……! どうして、処分を撤回なさったのですか!? 私の気持ちを、誰よりも理解してくださっていたはずでしょう!?」


感情のままに訴えるその姿は、いつもの王女然とした落ち着きをかなぐり捨て、まるで恋に破れた少女のようだった。


しかし、王は深々としたため息をつき、重々しい声で応じる。


「スフィーラよ。そちは、政治に私情を挟むでない。」


「っ……!」


「エンデクラウスはすでに一児の父となった身。正式に婚姻を交わし、子までもうけた男だ。今さらそやつを引き離そうなど、道理が通らぬ。」


「それでも……私は……私は、彼を……!」


震える声でそう呟いたスフィーラだったが、王は一切の情を見せなかった。


「そなたは王女であり、王国の顔でもある。望むならば、もっと身分も力も備えた、他の質の良い男を探すがよい。」


突き放すようなその言葉に、スフィーラの表情が一瞬、凍りついた。


だが——


「……あきらめません!!」


叫ぶように言い放つと、スフィーラはドレスの裾を乱しながら、くるりと踵を返す。


「スフィーラ!?」


王の声が鋭く響いた。


「待て!!スフィーラ!!余計なことをするでない!!」


玉座の間に響く王の声も、もうスフィーラには届いていなかった。


「戻りなさい! スフィーラ!!」


王の制止を振り切るように、スフィーラは扉へと一直線に走っていく。


その背に、父の言葉が幾度も投げかけられたが、振り向くことはなかった。


扉が勢いよく開かれ、スフィーラの姿は玉座の間から消える。


王は立ち上がりかけるも、その場に重く腰を戻すと、深く眉間に皺を寄せた。


「……なんということを……」


その呟きは、誰にも届かなかった。


そして、この瞬間——


王国の均衡が、ほんの少し、音もなく傾いたのだった。


――――――――

――――――


「……予定が狂ったわね。」


玉座の間を飛び出したスフィーラは、細くしなやかな足取りで廊下を進みながら、唇を噛む。その青い瞳は、悔しさと執念に燃えていた。


ドレスの裾を翻し、ふと脇に控えていた従者へと視線を向ける。


「少し強引だけど……調香師に調合させたアレを使うわ。」


その一言に、従者は軽く一礼する。


「かしこまりました、王女様。」


スフィーラの唇が、わずかに愉悦に歪む。


「何があっても…エンデクラウス様は私のもの…。」


◇◆◇◆◇


一方その頃——


エンデクラウスは上機嫌の面持ちで王城の正門へと向かっていた。


クラウディスを抱いたまま、ゆっくりと歩を進めるその表情は、どこか満ち足りたものに見える。まるで、すべてが思い通りに運んだとでも言いたげに。


(王の信認も得た。ディズィの名誉も取り戻せた。そして、クラウディスも俺の傍にいる。)


心の中で小さく頷いたときだった。


「お待ちくださいっ!」


甲高い声が、背後から響いた。


「エンデクラウス様、どうか、お待ちくださいませ!」


彼は足を止める。


振り返れば、金糸の髪をなびかせて駆け寄ってくる一人の少女——スフィーラ王女だった。


「……王女殿下。いかが致しましたでしょうか?」


抑揚のない声と共に、エンデクラウスはごく自然にクラウディスを腕に抱き直し、体の内側へとかばうように寄せた。


「お願いですわ……人払いを……少しだけ、お耳をお貸しくださいまし。」


スフィーラの顔は穏やかで、まるで幼なじみに甘えるかのような表情をしていた。


一瞬、エンデクラウスの目が細められる。だが、そのわずかな逡巡ののち、彼は従者たちへ手で軽く合図を送る。


「……少し下がってくれ。」


従者たちが距離を取るのを確認してから、スフィーラはそっと、彼の耳元に顔を寄せた。


その瞬間——


ふわりと香る、甘く、どこか媚びを含んだ香り。


まるで、官能の深みに誘うかのような、濃密な香気。


(……しまった。)


彼の瞳がかすかに揺れる。だが、その動揺も束の間——


「クスクス……さぁ、こちらへ……」


柔らかく微笑んだスフィーラは、手を差し伸べる。


その手が、まるで金色の鎖のように、彼を優しく、けれど確実に縛っていく。


エンデクラウスは、無言のまま頷き、ゆっくりとその手を取った。


足取りは落ち着いている。だがその表情からは、先ほどまでの理性と知性の輝きが消え失せていた。


瞳に光はない。笑みもない。


ただ、操られた人形のように、王女の背を追って歩き出す。





「さぁ……入ってくださいまし、エンデクラウス様。」


艶やかに微笑みながら、スフィーラ王女は扉を押し開け、自室へと彼を招き入れた。上品な香と絢爛な内装に包まれたその部屋は、まるで罠のように甘美な空間だった。


エンデクラウスは無言のまま足を踏み入れた。その腕の中には、穏やかな表情のクラウディスの姿。


「ふふ……こちらはお預かりいたしますわね。」


甘く囁くような声とともに、スフィーラは彼の腕からそっとクラウディスを引き取った。——が、その目には不気味な熱が灯っていた。


「たぁ?」


クラウディスが小さな手を振ると、スフィーラは微笑みながら彼を床へとそっと降ろした。


クラウディスが小さな手を上げ、きょとんとした目で二人を見上げた。


「おとなしくしていてくださいましね…。」


エンデクラウスはそれを見つめながらも、まだ香の効果で意識がぼんやりと霞んでいる。足取りは重く、まるで操られるように、ふらりとその場に立ち尽くしていた。


スフィーラの指先が、エンデクラウスの服にそっと触れる。


そのまま滑らかにボタンへと移り、脱がせようと手をかけた瞬間——


「……な、なんですの、これ!? なんて難解な構造……!」


彼女の額に、明らかな苛立ちが浮かぶ。


複雑に縫い込まれた仕立て。数段階に分かれたボタン、絡まるように重ねられた布地。引っ張れば別の箇所が締まり、緩めようとすれば別の布が絡む。ほどく手が止まるたび、彼女の細い眉が険しく寄っていった。


「どうして……どうしてこんな面倒な服を……!」


エンデクラウスはその姿を、微動だにできず見つめていた。


全身の力が抜け、鉛のように身体が重い。視線すら自由がきかず、ただ瞳だけを動かして状況を追うことしかできなかった。


(くそっ……油断した……!……あの香り、改良されている……ならば、最初からこのタイミングを狙っていたのか……)


脳の中で警鐘が鳴り続ける。


少しずつ外されていくボタン。その下にある肌が露わになっていく。


(……まだ香の効果が切れないのか……!)


あの時、耳元にふわりと感じた、あの甘ったるい匂い。特殊調合の媚香——彼女が以前から使っていたものよりも、明らかに濃度が高い。ごく微量でも神経に作用し、筋肉を麻痺させるほどの強さ。


(……どれだけの量を使ったんだ……!)


エンデクラウスは毒に対するある程度の耐性を持っていたはずだった。だが、それをも超えてくる濃度だった。明らかに計画的で、狡猾な準備。


(クラウディス……!)


ちらりと視線を向ける。


床の上にちょこんと座るクラウディスが、無邪気な目でこちらを見ている。その瞳には、まだ何も知らない安らぎと純粋さが宿っていた。


(あいつが狙っているのは……俺だけじゃない。クラウディスもだ……!)


喉の奥がかすれそうになる。


叫びたい。止めたい。でも声すら出ない。


せめて、この想いだけでも——!


(クラウディス……!逃げろ……逃げるんだ……!!)

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