24.領主として
エンデクラウスが旅立ち、彼の気配が消えた寝室は、妙に広く感じられた。
ディーズベルダは、キングサイズのベッドの中央で小さく丸まりながら、天蓋越しに差し込む朝の光をぼんやりと眺める。
(……広すぎる。)
たった一晩いないだけなのに、まるで部屋の半分が消えてしまったかのようだった。
彼が隣にいないというだけで、こんなにも肌寒く感じるなんて——。
「……もっと抱きしめてもらっておけばよかった。」
ぽつりと呟き、ディーズベルダはそっと自分の腕を抱いた。
昨夜まで当たり前のように感じていた温もりが、今はどこにもない。
(ほんの数週間、離れるだけ……それだけなのに。)
理屈ではわかっている。
けれど、心の奥が妙に締めつけられるような感覚は拭えなかった。
(……ダメダメ!弱気になっちゃ!)
勢いよく布団を蹴飛ばし、ディーズベルダはベッドから飛び起きる。
ここで寂しさに浸っている場合ではない。
もともと、この領地を守るのは自分の役目。
やるべきことは山積みだ。
「よし……まずは領地の見回りからね。」
冷静に言い聞かせながら、ディーズベルダは急いで支度を整えた。
着替えを終え、髪を手早くまとめると、厩舎へと足を運ぶ。
◇◆◇◆◇
馬にまたがり、ゆったりと風を受けながら、ディーズベルダは広がる大地を見つめた。
かつて、何もない荒れ果てた地だったこの場所は、今では人々が暮らし、畑が広がる生活の場へと変わりつつあった。
まだ開拓が始まって一ヶ月半。すべてが整っているとは言い難いが、それでも確かな変化を感じられる。
「おお、奥様!」
畑の一角で作業をしていた住民が、彼女の姿に気づき、鍬を肩に担ぎながら駆け寄ってきた。
他の者たちも、次々と手を止めて集まってくる。
「おはよう。何か困っていることはない?」
馬を止めて問いかけると、住民たちは顔を見合わせ、少し申し訳なさそうに口を開いた。
「実は……野菜ができたうれしさで、一気に収穫してしまいまして。」
「保存しきれないものが出始めておりまして……。」
「腐ってしまうのも時間の問題で……何か良い方法はありませんでしょうか?」
確かに、畑を見渡せば、広大な敷地に青々と育った野菜がたわわに実っている。
農業に慣れていない住民たちは、初めての大収穫に興奮し、調整することなく収穫してしまったのだろう。
それは仕方のないことだった。
(……でも、放っておけば、せっかくの恵みを無駄にしてしまう。)
この地に来てからの一ヶ月半、食糧の確保は最優先事項だった。
だからこそ、こうして安定した収穫ができたこと自体は喜ばしい。
けれど、それを保存する手段がなければ、意味がない。
「……そうね。」
ディーズベルダは手綱を握りながら、考えを巡らせた。
この世界には冷蔵庫は存在しない。干す、燻す、塩漬けにする——そういった保存技術はあるが、大量の野菜を長期間保存するには向かない。
ならば——
(冷蔵庫がないなら、私の魔法で代用するしかないわね。)
「いい方法があるわ。」
彼女はそう言いながら、馬から降り、住民たちの前に立った。
すると、一同は彼女の動きをじっと見守る。
ディーズベルダはそっと手をかざし、魔力を込める。
すると、彼女の掌から淡い光が溢れ、次の瞬間——
キィィィン——
細かな氷の粒が生まれ、周囲の温度がみるみるうちに下がっていった。
足元の草が薄く霜に覆われ、空気がひんやりと冷たくなる。
「おぉ……!」
「す、すごい……!」
住民たちは、目の前で起こる奇跡のような現象に驚きながら、言葉を失う。
「このまま野菜を凍らせて保存すれば、長持ちするわ。」
そう言って、ディーズベルダは試しに近くに積まれていた野菜のひとつに触れた。
瞬く間に氷が張り、野菜は凍りつく。
「……すごい。これなら、腐らずに済む……!」
「でも、凍ったままでは食べられませんよね……?」
「ええ。使うときは火で溶かしてね。」
ディーズベルダが説明すると、住民たちは一様に感心したように頷いた。
「なるほど……火で温めれば、また食べられるのですね!」
「このやり方なら、余った野菜を無駄にせずに済む!」
住民たちの顔には安堵と希望が浮かび、ディーズベルダもその様子を見てほっと胸をなでおろした。
(これで、少しは食料の不安も減るわね……。)
しかし、その安心感も束の間、ふと聞こえてきた会話に彼女の眉がピクリと動いた。
「……やっぱ雨水はまずいな。後で城まで汲みに行くか。」
「そうだな。けど、まあ飲めないことはねぇし。」
近くで作業をしていた農民が、水筒を傾け、雨水を直接飲んでいるのが目に入った。
(……ちょっと待って、今、雨水をそのまま飲んだ!?)
ディーズベルダは驚き、思わず馬を降りて彼らの方へと歩み寄る。
「ちょっと待って、今の……雨水をそのまま飲んでるの?」
声をかけると、農民たちは少し驚いたようにこちらを振り返った。
「え? まぁ……そうですけど?」
「ちょっとくらい平気ですよ。昔からそうやって生きてきましたし。」
彼らは何の気なしに答えたが、ディーズベルダの表情は険しくなる。
「ダメよ! ちゃんと沸騰させてから飲まないと、病気になるわ!」
「病気……?」
「そうよ。雨水には目に見えない汚れや菌が含まれている可能性があるの。飲んだらお腹を壊すことだってあるわ。」
「……へぇ。」
彼らは微妙な表情で頷いたものの、どこか納得していない様子だった。
「でも奥様、そんなこと言ったって、沸騰させるなんて面倒ですよ。」
「そうそう、そんな暇あったら畑の仕事しないと。」
「……面倒だからって、体を壊したら元も子もないでしょう?」
ディーズベルダは真剣な眼差しで彼らを見つめ、少しでも重要性を理解してもらおうと説得を試みる。
「沸騰させるのに、そんなに時間はかからないわ。たったそれだけのことで健康を守れるなら、やる価値はあるでしょう?」
農民たちは顔を見合わせ、少し渋い顔をしながらも「……まぁ、奥様がそう言うなら」と、ようやく頷いた。
「……よし、わかったよ。今度から気をつけます。」
「ほんとに頼むわよ。病気になられたら、治療するのだって大変なんだから。」
そう念押しすると、農民たちは「へいへい」と肩をすくめながら作業へ戻っていった。
ディーズベルダは去っていく農民たちの背中をじっと見送りながら、小さくため息をついた。
(ちゃんと聞いてくれるといいけど……。)
彼らの反応を見る限り、口では理解したと言っても、どこまで実行してくれるかはわからない。
長年の習慣を変えるのは簡単ではないし、「そんなものだ」と思い込んでいる人々に新しい知識を定着させるのは想像以上に難しい。
(うーん……やっぱり井戸でも作ろうかしら。でも、結局沸騰させないなら同じよね……。)
水質の問題もある。地中に水脈があるとしても、そこに何が混ざっているかは不明だし、すぐに安全な飲料水として使える保証はない。
何か別の方法がないかと考えを巡らせるが、結論が出る前に、遠くから大きな声が響いた。
「奥様ー!区画のことで確認をー!」
「わかったわー!」
ディーズベルダは考えを中断し、馬の手綱を軽く引きながら声のした方へと向かう。
(考えることが山積みね……でも、少しずつでも変えていかないと。)




