23.旅立ち
翌朝——。
魔王城の門前には、王都へ向かうための馬車が準備されていた。
数名の騎士たちが荷物の確認をしており、使用人たちも慌ただしく動いている。
その中で、ひと際目立つ人物がいた。
「良いか!ディズィの周囲には常に護衛を配置すること。屋内であっても最低二人はつけるように。もし何か不審な動きがあれば即座に報告を。些細なことでも構わない。特に夜間の見守りを徹底すること。ディズィが夜に研究室へ向かう際は、決して一人にしないように。」
エンデクラウスはクラウディスを片腕に抱きながら、騎士団と使用人たちを前に厳しく言い渡した。
「ジャケル、ディズィの食事は必ず俺がいない間もきちんと管理してくれ。」
「承知いたしました、旦那様。」
「ジャスミン、ディズィが寝室で目を開けたままぼーっとし始めたときは、邪魔せず、絶対に側で見守るように。」
「かしこまりました。」
「スミール、クラウディスの世話を任せる。」
「はい、坊っちゃん。安心してください。」
エンデクラウスはクラウディスを抱っこしながら、ひとつひとつ念入りに指示を出していた。
その言葉にはいつもの余裕よりも、どこか名残惜しさが混じっている。
ディーズベルダは少し呆れつつも、彼がここまで気にかけてくれていることが嬉しくもあった。
「エンディ、そんなに言わなくても大丈夫よ。」
「いいえ、大丈夫ではありません。」
即答だった。
「俺がいない間、あなたの身に何かあったらと思うと……安心して王都に行けません。」
「……もう、大げさなんだから。」
ディーズベルダは苦笑しながら、彼の頬をそっとつつく。
「そんなに心配しなくても、私はここで待ってるわ。」
「……ええ。」
エンデクラウスは小さく息を吐き、少しだけ瞳を伏せた。
それから、ゆっくりとクラウディスをスミールに預ける。
「さあ、もう行きますよ。そんなに細かく指示を出されても、奥様は困られるだけですし、皆さん、すでに心得ていますよ。」
スミールが優しくクラウディスを抱き上げると、エンデクラウスはディーズベルダを見つめ——
次の瞬間、彼女をガバッと強く抱きしめた。
「エンディ!?」
驚きの声を上げるディーズベルダだったが、彼の腕の中は暖かくて、どこか安心する。
「離れるのはこれっきりです。必ず、汚名を返上してきます。」
彼の低い声が、耳元で囁かれる。
(——そうだった。エンディは、この旅で私の名誉を取り戻そうとしてくれてるんだった。)
彼がこんなにも真剣な顔をしているのを見ると、胸の奥がぎゅっとなる。
「……わかったわ。お願いね。」
ディーズベルダは、そっと彼の背中に手を回し、小さく頷いた。
すると、エンデクラウスは満足そうに微笑み、名残惜しそうにしながらも、ようやく彼女から身体を離す。
ゆっくりと馬車へと歩き出すが——
途中で足を止め、ふと振り返った。
「……?」
そのまま彼は、ディーズベルダの元へ戻ってきて——
「……え?」
突然、唇が重なる。
「ちょ、ちょっと!!」
人前で!?
慌てるディーズベルダをよそに、エンデクラウスは平然とした顔で彼女を見つめる。
「では……行ってきます。」
「ま、待っ……」
言い終わる前に、彼はもう一度キスを落とす。
「——!!!」
ディーズベルダの顔が一瞬にして真っ赤になる。
周囲の騎士や使用人たちは、困惑しながらもどこか微笑ましげにその様子を見守っていた。
エンデクラウスは満足そうに微笑み、彼女の頬をそっと撫でると、名残惜しそうにしながらも馬車へと向かう。
その背中を見送りながら、ディーズベルダは心臓が壊れそうなほどドキドキしていた。
(も、もう……! あんな人前で、恥ずかしすぎるでしょう!?)
けれど——
彼の唇が触れた感触が、まだ微かに残っていて。
離れる前にもう一度振り返るかもしれない、と無意識に彼の後ろ姿を追いかけてしまう自分がいた。
◇◆◇◆◇
ガタゴトと揺れる馬車の中。
エンデクラウスは窓の外を眺めながら、無造作に片足を組み、肩をわずかに傾けた姿勢で座っていた。
その瞳は遠くを見つめているが、その視線の奥底には、冷酷な光が静かに灯っている。
「……ディズィが純粋で助かったな。」
ぽつりと零れた言葉は、どこか冷めていて、微かに愉悦すら滲んでいた。
スミールは静かに微笑みながら応じる。
「そうでございますね。」
「それに……お前が生まれてきてくれて助かった。」
エンデクラウスは、スミールの腕の中にいるクラウディスの頬を、慈しむように優しく撫でる。
その手つきは驚くほど柔らかく、目の奥には紛れもない"愛"が宿っていた。
しかし、それと同時に、その愛は鋭利な刃物のような執着と支配の色を帯びていた。
スミールは微かに視線を落としながら、慎重に言葉を選ぶ。
「ですが……奥様がお知りになった時が少し心配です。」
エンデクラウスは小さく笑った。
その笑みには、どこか狂気じみた確信がある。
「……ビンタの一発や二発は覚悟すべきだろうな。」
指先で顎をなぞりながら、窓の外へと目を向ける。
すでに計算された未来を見据えるように、何もかもを掌握する者の目だ。
「万が一、離婚となれば……。」
スミールが慎重に問う。
エンデクラウスは鼻で笑った。
「それだけはできないさ。」
断言する声には、一切の迷いがない。
「俺とディズィは、教皇のもとで愛を誓った。」
スミールが驚いたように瞬きをする。
「……そんなことまで!?」
「まぁ?」
無邪気な声が響く。
クラウディスが、小さな手をもぞもぞと動かしながら、父の顔を見上げた。
エンデクラウスは、その姿を愛しげに見つめながら、スミールの腕から彼を抱き上げた。
まるで壊れ物を扱うような優雅な手つきで、そっと胸に抱く。
そして、あやすように背を撫でながら、ゆっくりと目を細めた。
(ディズィは外のことにまったく興味を持たない。だからバレずに済んだ。)
教皇のもとで誓いを立てた場合、離婚は教皇自身の許可がなければ成立しない。
神聖力が強すぎるため、解除できる者はこの世に存在しない。
さらに、その教皇は極めて多忙で、些細なことに時間を割くことはない。
(つまり、何があろうと、ディズィは俺の妻のままだ。)
その事実を思い返すと、エンデクラウスの唇の端がゆっくりと持ち上がる。
紫の瞳が、クラウディスの幼い顔をじっと見つめた。
指先で柔らかい頬を撫で、静かに呟く。
「クラウディス——」
その声音は驚くほど穏やかで、愛に満ちている。
「俺の息子に生まれたのなら、少し我慢してくれ。」
そう言った彼の顔には、どこか残酷な微笑みが浮かんでいた——。