185.新婚旅行は、内緒で造る。
研究室の一角、木製の作業台の上には、丸く浅い大鍋のような容器が置かれていた。
その中には、短粒米の種もみがたっぷりと浸かっている。
ふつふつと湯気を立てるその水の表面は、まるで小さく沸き立つ温泉のようだった。
その前で、エンデクラウスが腕を組みながら無言で立っていた。
視線は一点――水面。
手のひらからは、ごく微細な火属性の魔力が静かに放出されている。
温度の上がりすぎを防ぐために、火の出力をミリ単位で調整し、
まるで“魔力で支えるヒーター”のような役割を担っていた。
だが――
彼の目は死んでいた。
いや、正確には、ジト目だった。
「すごーい」
無感情な棒読みボイスが、室内に響く。
「わぁー、すごいすごい」
手拍子付き。
だが、拍手のテンポも感情も明らかに“やる気ゼロ”である。
「……」
エンデクラウスは、その言葉の主――
ドレスを着て椅子に座りながらお茶を飲んでいるディーズベルダに、にじり寄るように目を向けた。
「俺をこんなふうに扱うのは……ディズィだけですよ」
「へ? だってエンディ、魔力の調整うまいし?
一定の温度で保ち続けるのって、なかなかできることじゃないのよ?」
「お褒めの言葉として受け取っておきますが……で、あと何時間これを?」
「……丸一日?」
「……俺を、殺す気ですか?」
「大丈夫よ! きっと! 多分!」
「“きっと”と“多分”が共存してる時点で信用できませんね」
そうやって淡々と詰め寄ってくるエンデクラウスに、
ディーズベルダは笑いながら椅子をくるっと回して背中を向けた。
ちょうどそのとき――
「失礼、入ってもよろしいですか?」
軽やかに響くノックと共に、白金のローブ姿の教皇がすっと現れる。
「おはようございます、教皇様」
ディーズベルダが手をひらひら振って迎えると、
教皇は研究室の様子を一通り見回し、エンデクラウスの前に置かれた湯桶を見つめる。
「おはようございます。何やら……面白そうなことをしていらっしゃいますね?」
「これですか? “温湯浸種”っていう処理らしいんですが、
……私も本で読んだだけなので、実のところよくわかってないんですよ」
「へぇ……なら、火の魔石を使えば良いのでは?」
「――あっ!! その手があったわ!!」
バッと立ち上がって手を叩くディーズベルダ。
完全に“忘れてた”というリアクションである。
「ディズィ……」
エンデクラウスはジト目のまま、さらにじわじわと顔を近づける。
「お、怒らないでよ!?」
「一晩は俺の膝で寝てくれないと、許しませんね」
エンデクラウスはしれっとした顔で、言葉とは裏腹に本気の圧をじわじわかけてくる。
「えぇ……条件重い……」
ディーズベルダは肩を落としつつも、あきれたように苦笑して受け流す。
その横で、教皇は静かに紅茶を一口。
――なんとなく流れが落ち着いたところで、ふと思い出したようにディーズベルダが首を傾げる。
「というか、教皇様。今日はどんなご用事で?」
「あぁ」
教皇は自然な仕草でカップをソーサーに戻しながら、淡く笑った。
「“海の開拓”はいつ頃されるのかと思いまして」
「……海、ですか?」
ディーズベルダはきょとんとしながら、一拍遅れて返す。
「うーん……当分先になりそうです。優先順位的にもまだ下のほうで……」
「そうですか……」
教皇は少し残念そうに目を伏せ――けれど、すぐにいつもの調子で顔を上げた。
「ですが、“死ぬ前”にはぜひリゾート地を作りませんか?」
「死ぬ前って……!」
ディーズベルダは思わず語気を上げかけたが、なんとか耐えて言葉を丸め込む。
「……確かに、教皇様から見れば、私の寿命なんて蟻のようなものかもしれませんけど……!」
「ええ。蟻、とは思っておりませんが……せいぜい“長命な野草”くらいですかね」
「そこ、慰めになってませんから!」
思わずツッコミを入れつつも、ディーズベルダは額に手を当てて小さくため息をついた。
(……もう、どこから突っ込めばいいのやら)
「それなら、教皇様が“リゾート”作ったらどうです? 技術力的にできそうですし」
と軽く投げてみたが――
「それでも良いのですが、資料がないもので」
「あぁ……確かに、それは……」
「ですので、ディーズベルダ様。よろしければ、リゾート地の構造・設備・風習等、まとめた資料をご用意いただけると」
「はいはい……作っておきますよ……」
ペンを持ちながら、がっくりとうなだれる。
(あれ? なんか、また仕事がひとつ増えた気がする……)
「ありがとうございます。実はですね――」
と、教皇は少しだけ声を落として、ほんのりと頬を染めた。
「ベリと“新婚旅行”をしようにも、どうにも良い場所がなくて。
他国だと、ベリの精神衛生によろしくないですし……」
「…………」
ディーズベルダは手元の紙に“リゾート施設案”と書きかけていたペンを止める。
(え、そこまで……?)
教皇は、なんの照れもなく“新婚旅行”と言ってのけた。
しかも“ベリの精神に悪い”という理由で国内で完結させようとしている。
(すんごい……ベリルお兄様に、溺愛してるのね……)
その目は冷静なようでいて、内心では若干ひいていた。
というより、“ちょっと重い愛だな……”と感じていた。
と、そのすぐ隣で――
「いいですね。新婚旅行」
不意に響いたのは、エンデクラウスの低くて柔らかい声だった。
「……え?」
振り返った先で、彼はにこりと優しく微笑んでいた。
「俺たちも、そうしましょうか。ディズィ」
「い、今さら……?」
ペンを持っていた手がぴたりと止まる。
ディーズベルダはきょとんとした目で彼を見つめた。
エンデクラウスはいつものクールさをたたえつつ、少しだけ目を細めて続ける。
「はい。他国へ行こうと思っていましたが……子供もいますからね。
遠出よりも、近場で落ち着いた場所を探すほうがいいかと」
その言葉に、ディーズベルダの胸がふわりとあたたかくなる。
彼の言葉はいつもストレートではないけれど――ちゃんと、彼なりに家族のことを考えてくれている。
「……まぁ、確かに。そうね」
彼の瞳を見ながら、頬を少しだけ赤らめつつ、ディーズベルダはそっと笑う。
「じゃあ……エンディも、リゾート開発、手伝ってくれる?」
そう尋ねると、エンデクラウスは即座に頷いた。
「はい。もちろんです。
ディズィが作る場所ですから、俺も参加しないといけませんね」
「ふふ、じゃあ期待してるわよ?」
笑い合うふたりの空気に、横から教皇がすっと一言、挟み込んできた。
「……あ、ただし。ベリには内緒にしてくださいね?」
「えっ?」
ディーズベルダとエンデクラウスは、同時に教皇の方を振り向いた。
すると教皇は、口元に人差し指を当てて小さく囁く。
「サプライズにしたいのです。
リゾート地が完成した暁には……ベリとふたりで、初めての旅行に」
「……すご……」
思わずディーズベルダは小さくつぶやいた。
(そこまで真剣に……)
エンデクラウスはふっと笑いを堪えながら、
「了解しました」と淡く返すだけだったが――
どこか、“俺も似たようなもんですけどね”とでも言いたげな顔をしていた。




