184.その家門、次はなきものにします。
ディーズベルダは、最近完成したばかりの自分専用の研究室にいた。
魔王城の西側にある小部屋を改装したその空間は、窓から柔らかな自然光が差し込み、整えられた棚には瓶詰めの種子や資料がずらりと並んでいる。
今日は、試験的に育てていた短粒米の“種もみ選別”の作業中だった。
「……ふふ、今日は天気もいいし、作業が捗るわね」
机の上には、籠に山と盛られた籾殻付きの種。
彼女はそれを手に取り、一粒一粒、形の良いものだけを静かに分けていく。
指先の感覚と、光にかざしたときの色合いで――
健康で、ふっくらとした実だけを、丹念に見極める。
(ここまで来るのに、ずいぶん時間がかかったわ……
でも、ようやく“これだ”と思えるものが育ってきた)
そんな中、ふと背後で扉が開く音がした。
「ディズィ、それは?」
やや控えめな声でエンデクラウスが顔をのぞかせると、
ディーズベルダは手元の籾を指でつまんだまま、振り返って微笑んだ。
「ん? これ? 学生時代にね、長粒米を交配して作ってた短粒米があったの。
それをこの世界でも再現して……いま、それをさらに選別してるの」
「なるほど……再構築、というわけですね」
「そうそう、記憶の中の“味”と“質感”をもとにね。
……あの頃はまさか、また一からやり直す日が来るなんて思わなかったけど」
彼女は小さく笑いながら、水を張った木の桶の中へ種もみをそっと流し込んだ。
すぐに、“ぽこぽこ……”と小さな泡が浮かび――
軽い種は水面に浮かび、重く健康なものだけが底へ沈んでいく。
「……これが“塩水選”ってやつ。比重の違いで、質の悪い種を浮かせて取り除くのよ」
浮いてきたものをすくい取ると、その手つきはどこか、料理をするときのように丁寧だった。
「ふふ……魔法も錬成も使わないで、こんな地道なことをするなんて、ね」
「でも……そういうところが、ディズィらしいですよ」
エンデクラウスは、棚の端に軽く寄りかかりながら言った。
光の差す窓辺で黙々と種もみを選別するディーズベルダの横顔を、どこか誇らしげに見つめていた。
だが――
「……まぁ、もっと闇深い理由を言うとね……」
ディーズベルダがくるりと椅子を回し、片肘を背もたれにのせながら、斜めに彼を見上げる。
「リーフィット侯爵家の人に頼めば、この作業なんてすぐに終わるのよ。
でもね――あなたが怖すぎて依頼できないの」
その言葉に、エンデクラウスの眉が一瞬ピクリと動いた。
「……あぁ」
少しだけ首をかしげ、静かな声で返す。
「交流を持つだけで、俺はその家門を次こそ――“なきもの”にする自信がありますね」
冗談のような響き。
けれど、その視線はどこまでも本気だった。
(――ああ、やっぱりダメだこの人)
ディーズベルダは心の中で天を仰ぐ。
そしてそっと、手元の塩水選の作業に戻りながら、かつての“事件”を思い出す。
(……そう、あれは、学生時代――)
当時、ディーズベルダはエンデクラウスに付きまとわれていた。
いや、本人いわく“見守っていた”だけらしいが、当時のディーズベルダからすれば、完全にストーカーだった。
それに拍車をかけたのが――スフィーラ王女の存在。
(どう見たって、スフィーラ様はエンデクラウス狙いだったし……)
王族に狙われてる相手に割って入る度胸なんて、当然なかった。
むしろ“なるほどね、エンデクラウスってそういうルートか”と納得し、早々に諦めたほど。
(だから私は私で、婚活!)
と、王都にいる名家の中で、自分の目的に最も適した人物を探し――
白羽の矢を立てたのが、リーフィット侯爵家の子息だった。
植物に関する魔法に長け、成長促進や交配補助、種の再構築すらできる彼は、
ディーズベルダにとって“開発”のパートナーとして、理想的すぎる存在だった。
(……猛アタックした。割と、堂々と)
あの頃の自分は、“エンデクラウスだけは絶対ない”と思い込んでいた。
彼は“王女のものになる”と信じていたし、自分には別の未来があると――
――だが。
その様子を見ていたエンデクラウスが、ある日突然“とんでもない行動”に出た。
(……あれは、ほんとに……烈火のごとく嫉妬してたのよね)
詳細は、いまでも思い出すと胃が痛くなる。
安全のため。
いや、あの家門のためにも……距離を置いた方がいいと、本能で理解した。
ディーズベルダはぶるっと身震いしながら、桶の中から沈んだ種をすくい上げる。
「あれ以来、私は“リーフィット”の“リ”の字も出さなくなったのよ」
「賢明ですね」
即答。しかも満足げ。
「……本当はね、パーシブルスト公爵家あたりに近づいておけばよかったのよ。
能力的にはちょっと足りないけど、気まずくなることもなかったし」
「……ディズィ」
エンデクラウスが、意味深に目を細める。
「俺以外に“近づく”という選択肢を前提にしていた時点で――
それはもう、大きな間違いだったんですよ」
「はいはい、はいはい……」
ディーズベルダは苦笑を浮かべながら、片手をひらひらと振った。
けれど、心のどこかでは“いつもの彼”の温度に、やっぱりちょっと嬉しさもある。
彼女は指先でつまんだ籾をひとつ、水の入った桶の中へ。
――ぽちゃん。
静かに響いた音に、研究室の空気がまたひととき落ち着きを取り戻す。
……が。
その余韻を破ったのは、ひとつの低く穏やかな声だった。
「……本当に、分かっていますか?」
「……へ?」
ディーズベルダは顔だけで振り返る。
そこには、椅子に浅く腰かけて、肘を膝に乗せ、じっとこちらを見つめるエンデクラウスの姿があった。
瞳の奥が、ふっと揺れている。
(うわ、これ本気の顔だわ……)
少しだけ背筋を伸ばして言葉を返す。
「わかってるわよ。……エンディは、ディルコフにさえ嫉妬してるくらいだし」
にっこりと笑って言ってみせると、エンデクラウスはほんの一瞬、眉をピクリと動かす。
けれどすぐに口元だけで、静かに笑った。
「……なら、いいんです」
その“なら”の中に、どれだけの“我慢”と“覚悟”と“諦めのなさ”が詰まっているか――
ディーズベルダは長年の付き合いで、もうちゃんと理解していた。
(……やっぱり、とんでもない男だわ)
そう心の中でぼやきながらも、彼女の頬はほんのり、嬉しそうに染まっていた。




