183.米と大豆、始めます!
「……いい加減、領地を発展させなきゃ!」
パチンと書類を閉じて立ち上がったディーズベルダの声が、昼下がりの執務室に響く。
窓からはやわらかな光が差し込み、そよ風に書類の角がふわりと揺れていた。
そんな彼女の勢いに、向かいのデスクで椅子にもたれていたエンデクラウスが、ペンを止めてゆるく眉を上げる。
「……え? 十分、発展していると思いますが……」
「肝心な“米”と“大豆”を生産できてないのよ!」
ディーズベルダは資料の束を抱えて歩き出し、壁際の棚にそれを並べながら説明を始める。
「米といえば……アイスベルルク侯爵家の農地ですね?」
「そう。でもあれは“長粒米”っていう種類なの。
細長くてパラっとしてるんだけど……私が作りたいのは、“短粒米”。
もちもちして冷めても美味しいの。」
「……米にもそんな種類があるとは。驚きました」
エンデクラウスは頷きながら、椅子に肘をかけて頬杖をつく。
「で、大豆は? 輸入すればいいのでは?」
「うーん……それも考えたんだけどね。ちょっと特殊な加工方法を試したくて。
味噌とか、豆腐とか、納豆とか……できればうちで育てた豆でやりたいのよ」
夢中で語るディーズベルダの背中を、エンデクラウスは黙って見つめていた。
「……日に日に、ゲルセニアからの流民も増えていますし、
農業従事者も確保できそうではありますが……」
一拍置いて、ふと少しだけ声のトーンが落ちる。
「……ディズィが、また畑仕事に出かけてしまうのかと思うと……
あまり、うん……頷きたくありませんね」
「……えぇ? 今さら何言ってるのよ」
資料をめくる手を止め、ディーズベルダが振り返る。
エンデクラウスは視線を逸らし、ほんの少しだけむくれたように肩をすくめた。
「……ダンスの練習も、したいですし」
「……」
(……な、なにこの空気。え? えっ……拗ねてる!?)
ディーズベルダは目を瞬かせた。
エンデクラウスの拗ねた姿なんて、そうそう見られるものではない。
けれど確かに――目の前の夫は、不満げに机の書類を指先でトントンと叩いていた。
(ちょっと、可愛いじゃないの……)
彼のまじめな表情とのギャップに、ディーズベルダは口元を緩めそうになりながらも、なんとか堪える。
気づかれないように、咳払いひとつ。
「そ、それってつまり……寂しいってこと?」
ディーズベルダが机の向こうから少し身を乗り出しながら問いかけると、
エンデクラウスはきゅっと唇を引き結び、表情を崩さずに返す。
「……寂しいとか、そんな言葉は使いません」
「言ってるようなものよ、それ」
そう返すと、彼はふんっと小さく鼻を鳴らし、視線を窓の外へ逸らした。
だが――
(あ、耳が赤い)
見逃さなかった。
わずかに火照るような赤みが、彼の耳の先端にじんわりと滲んでいた。
(……拗ねてる。完全に)
ふだんは沈着冷静で、どこまでもスマートな夫が――
こうしてほんの少し“手のかかる男”になる瞬間。
(なんか……めんどくさいけど、可愛いわね)
ディーズベルダはほんのり笑いそうになるのをこらえつつ、机の上に両手をついて、わざと明るく言ってみせる。
「魚を地下で気軽に採れるようになったし、大豆を特殊加工したタレでエンディに美味しい魚料理を作ってあげたいな~……なんて思ってのことだったのよ?」
ちらっと横目で反応を窺うと――
エンデクラウスはピクリと反応したが、すぐに顔を背ける。
「……ディズィが俺に、そんな気の利いた発想をしてくれるなんて思えませんね」
小さくぼそりと呟く声には、拗ねをこじらせた男子高校生のような素直じゃなさが滲んでいた。
(……め、めんどくさい……!)
思わず心の中で頭を抱えるディーズベルダ。
なのに、なんだかその態度がじわじわと愛しくなってきて――
ふと、ある“既視感”に気づいてしまう。
(あれ……なんかこの拗ね方……)
思わず口元に手を添えて吹き出しそうになりながら、ディーズベルダは肩を小刻みに揺らす。
「ふっ……あっはっはっは……っ!」
「……なんですか?」
むっとした表情で振り返るエンデクラウスに、ディーズベルダは笑いながら答えた。
「ごめんなさい……ごめんなさいね。
……でも、拗ね方がクラウにそっくりすぎて……」
エンデクラウスはきょとんとし、少しだけ目を細めた。
「親子だなぁって……思ったの。あの子も、拗ねると絶対顔を背けるのよ。
あーもうって思うんだけど、なんか、同じ顔なのよね……」
ディーズベルダが笑いながらそう言うと、エンデクラウスはふいに視線を伏せ、
眉を少し下げて――ほんの少し、恥ずかしそうに微笑んだ。
(……あ、やっぱり似てる)
そして次の瞬間、エンデクラウスが少しだけ姿勢を正し、真面目なトーンで言葉を紡ぐ。
「……米と大豆でしたっけ。
夢中になりすぎずに、俺との時間をちゃんと調整するなら……着手してもいいですよ」
静かだけれど、まっすぐな目。
それは、彼なりの“許可”であり、何より――“信頼”そのものだった。
ディーズベルダは目を丸くしたまま、しばし動けなかった。
言葉の意味を、心がゆっくりと追いかけていく。
「……エンディ……!」
思わず、感情がこみあげた。
椅子から立ち上がると、机の角をまわりこみ、エンデクラウスの元へ駆け寄る。
そしてそのまま、ぽふっと勢いよく彼の胸に飛び込んだ。
「ありがとう……!」
彼の胸の奥に顔を埋めながら、ぎゅっとしがみつく。
エンデクラウスは最初こそ少し驚いたようだったが、すぐに片手をそっとディーズベルダの背に回し、
もう一方の手で、彼女の髪を優しく撫でた。
「……ディズィがやりたいことを、俺は止めたりしませんよ。
ただ、たまには……その情熱の一部を俺にも分けてほしいだけです」
その囁きに、ディーズベルダはくすぐったそうに笑って――彼の腕の中で、こくりと小さく頷いた。




