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181/188

181.ささやかな乾杯、かけがえない時間。

場所は、王都でも格式高いことで知られる老舗レストラン。

石造りの外壁に重厚な扉、内装には繊細な彫刻と調度品が並び、まさに“貴族の社交の場”といった趣だった。


その中でも、特別に用意された個室には――

アイスベルルク侯爵夫妻、ベインダルとエンリセア、エンデクラウスとディーズベルダ、膝の上にはクラウディス。

そして、ベリルコートと教皇が向かい合うように並んでいた。


高級なリネンのテーブルクロスの上には、整えられた金縁の皿と繊細なグラス。

しっとりとした照明がテーブルを照らし、周囲には香ばしいパンの香りがほんのりと漂う。


しかし――


「……では、乾杯を」


誰かがそう言ってグラスを持ち上げると、全員も静かにそれに倣った。


けれど、どこかちぐはぐだ。

タイミングが少しずつずれて、控えめな「カチン……」という音が空間に響く。


(……なんだろう、この気まずい空気)


ディーズベルダは苦笑を飲み込むようにして、目の前の水色の液体が入ったグラスを見つめた。

誰もが、それぞれ微妙に緊張しているのが伝わってくる。


「なんだか……すごい顔ぶれですな……」


ぽつりと呟いたのは、アイスベルルク侯爵家の父。

口元に微妙な笑みを浮かべつつ、手元のグラスをくるくると回している。


「えぇ、そうですね」


隣のエンデクラウスも、相変わらず落ち着いた声で返したが、どこか表情が硬い。

端正な顔に仮面のような笑みを浮かべているのは、“完全に社交の顔”というやつだった。


誰もが何かを話そうとして、話題を探しあぐねている。

そんな静かなもどかしさの中――


ふと、小さな声がテーブルに落ちた。


「……僕が……披露宴を開く勇気がなかったから……」


その声に、全員がふっと視線をそちらに向けた。


ベリルコートだった。


彼は俯いたまま、手元のフォークを指先でそっといじりながら続ける。


「その……だから……こうして、集まってもらうことしかできなくて……」


下を向いて、声を絞り出すように告げたその言葉に――

空気がふっとやわらいだ。


手元のグラスを見つめるように伏せたままのベリルコート。

彼の肩がほんの少しすぼまっているのは、恥ずかしさと戸惑い、そしてどこか「受け入れてもらえるか」という不安が見え隠れしていた。


そのとき。


ゆっくりとグラスを置いたベインダルが、落ち着いた声で言葉を差し挟んだ。


「そのことだが、ベリル。私とエンリセアの披露宴と、合同にしないか?」


「えっ……?」


ベリルコートは思わず顔を上げ、兄を見つめる。


「お前だけじゃない。クラウス、ディーズベルダもだ。お前たちも披露宴を開けていないだろう」


「え、えぇえ!? ちょっ……!」


ディーズベルダが思わず吹き出しそうになりながらも声を上げた。

隣のエンデクラウスはというと、肩をすくめるようにして微笑む。


「確かに、俺たちは当時、追放された身でしたからね。披露宴どころではなかった。

ディズィに任せますよ」


あっさりとしたその受け答えに、ディーズベルダは一瞬きょとんとした後、じわりと頬を緩める。


ベインダルはふたりを交互に見やりながら、改めてベリルに視線を戻す。


「披露宴をしたくないわけじゃないだろう、ベリル。

お前に色々あるのは分かる。

だが、私とリセ、そしてディーズベルダたちの招待客と合同で開けば……

少しは、気が楽になるんじゃないか」


兄としての気遣いがにじむその言葉に、ベリルコートの目元がかすかに揺れる。


「……に、兄様……」


込み上げるものをこらえるように、口元をそっと手でおさえる。

その目は少し潤んでいて、頬にはかすかな赤みが差していた。


(……こんなふうに、背中を押してくれるなんて……)


照明の落ち着いた光の中、教皇がそっと身を寄せる。

その仕草は自然で、誰よりもベリルの心の揺れを理解していた。


「……ベリがしたいように」


その声は低く、耳元にだけ届く甘やかな囁きだった。


ベリルコートは思わず顔を向ける。

その目に、教皇の穏やかな笑みが映る。


「ほ、本当に……いいんですか……?」


いつになく弱々しいその問いかけに、教皇は微笑みながらゆっくりと頷いた。


そして――


「はい」と、エンデクラウスが。


「もちろんよ」と、ディーズベルダが。


エンリセアもまた、やわらかな笑みを浮かべながら、頷く。


四方から届くあたたかな眼差しに、ベリルコートはしばし沈黙し、瞳を閉じた。

そのまつ毛がわずかに震え――やがて、ゆっくりと顔を上げた。


「……お願いします」


そう口にしたその声には、はっきりとした強さがあった。

微笑んだ頬には、ほんの少しだけ、涙のあとがにじんでいた。


けれど、誰もそれを指摘はしなかった。

その涙はきっと、今この場でだけ、そっと流れていいものだったから。


ディーズベルダは、そんな弟の横顔を見守るように微笑んでから、軽く声を上げる。


「ということは……披露宴は、1年後くらいかしら?」


「そのつもりだ」


ベインダルが静かに頷く。


「良かったですね、ベリ。

とても気にしていらしたので……心配していましたから」


教皇の隣で、ベリルコートが小さく頷き、視線を伏せる。


その肩に触れるように教皇の指先がそっと置かれ、ふたりの間に言葉にならないやりとりが通じ合っていた。


そんな和やかな空気の中で――

ディーズベルダの視線は、ふと斜め向かいの両親に向く。


(……あー……やっぱりね)


彼らは無言のままグラスを両手で持ち、どこかぎこちない笑みを張りつかせていた。

無理に談笑に加わるわけでもなく、ただ静かに空気を伺うように俯きがちで――


(そりゃそうよね。私達はもう慣れてるけど……教皇様が普通に座ってるこの状況、異質過ぎるもの)


王都でも屈指の由緒正しいレストランの、重厚な個室。

高貴なローブ姿の教皇がワイングラスを持って微笑んでいる光景は、なかなか現実味が薄い。


(よし。こういうときこそ――出番よ、クラウディス)


「お父様、お母様。

クラウディスを……抱っこしてあげてくださいな」


ディーズベルダがそう声をかけると、父と母は同時に顔を上げ、目を丸くした。


「……い、いいのか?」


父が恐る恐る問えば、ディーズベルダはにっこりと頷く。


「えぇ。もちろん」


すると、まるで待ってましたと言わんばかりに、クラウディスが身を乗り出し――


「じーしゃま! ばーしゃまっ!」


と元気に声を上げながら、両親のほうへ両腕を伸ばした。


その瞬間、両親の表情がぱっと和らぐ。


「ははは……顔はクラウス君にそっくりだが、髪色は息子たちと同じだな……」


と、父はどこか照れたように笑いながら、クラウディスを腕に抱き上げる。


「そうね……。とっても可愛いわ」


母も微笑みながら、そっとクラウディスの手を握る。


抱っこされたクラウディスは、すっかり甘えモードになって、ふたりにぴとっとくっついていた。

くすぐったそうに笑いながら、懐にすっぽり収まり、慣れたように頬を寄せてくる。


その様子に、ディーズベルダはこっそりと胸を張る。


(ふふ……さすが我が息子。空気を読む力も、甘え上手も、見事な武器よね)


と――隣からぽつりと低い声。


「……ディズィ。息子を道具にしましたね?」


いつの間にかグラスを置いたエンデクラウスが、斜め下からじとっと視線を向けてきた。


「ち、違うわよ。抱っこさせたことなかったでしょ? 今のうちに慣れてもらおうと思っただけ!」


焦りながら言い訳するディーズベルダに、エンデクラウスは半眼のまま肩をすくめる。


「……ふむ。巧妙な策ですね、さすが我が妻」


その苦笑に、ディーズベルダは思わずぷっと吹き出した。


そうして、クラウディスの柔らかい笑い声と、大人たちの笑みがひとつ、またひとつ――

ゆっくりと、食卓の空気をまあるく温めていった。

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