181.ささやかな乾杯、かけがえない時間。
場所は、王都でも格式高いことで知られる老舗レストラン。
石造りの外壁に重厚な扉、内装には繊細な彫刻と調度品が並び、まさに“貴族の社交の場”といった趣だった。
その中でも、特別に用意された個室には――
アイスベルルク侯爵夫妻、ベインダルとエンリセア、エンデクラウスとディーズベルダ、膝の上にはクラウディス。
そして、ベリルコートと教皇が向かい合うように並んでいた。
高級なリネンのテーブルクロスの上には、整えられた金縁の皿と繊細なグラス。
しっとりとした照明がテーブルを照らし、周囲には香ばしいパンの香りがほんのりと漂う。
しかし――
「……では、乾杯を」
誰かがそう言ってグラスを持ち上げると、全員も静かにそれに倣った。
けれど、どこかちぐはぐだ。
タイミングが少しずつずれて、控えめな「カチン……」という音が空間に響く。
(……なんだろう、この気まずい空気)
ディーズベルダは苦笑を飲み込むようにして、目の前の水色の液体が入ったグラスを見つめた。
誰もが、それぞれ微妙に緊張しているのが伝わってくる。
「なんだか……すごい顔ぶれですな……」
ぽつりと呟いたのは、アイスベルルク侯爵家の父。
口元に微妙な笑みを浮かべつつ、手元のグラスをくるくると回している。
「えぇ、そうですね」
隣のエンデクラウスも、相変わらず落ち着いた声で返したが、どこか表情が硬い。
端正な顔に仮面のような笑みを浮かべているのは、“完全に社交の顔”というやつだった。
誰もが何かを話そうとして、話題を探しあぐねている。
そんな静かなもどかしさの中――
ふと、小さな声がテーブルに落ちた。
「……僕が……披露宴を開く勇気がなかったから……」
その声に、全員がふっと視線をそちらに向けた。
ベリルコートだった。
彼は俯いたまま、手元のフォークを指先でそっといじりながら続ける。
「その……だから……こうして、集まってもらうことしかできなくて……」
下を向いて、声を絞り出すように告げたその言葉に――
空気がふっとやわらいだ。
手元のグラスを見つめるように伏せたままのベリルコート。
彼の肩がほんの少しすぼまっているのは、恥ずかしさと戸惑い、そしてどこか「受け入れてもらえるか」という不安が見え隠れしていた。
そのとき。
ゆっくりとグラスを置いたベインダルが、落ち着いた声で言葉を差し挟んだ。
「そのことだが、ベリル。私とエンリセアの披露宴と、合同にしないか?」
「えっ……?」
ベリルコートは思わず顔を上げ、兄を見つめる。
「お前だけじゃない。クラウス、ディーズベルダもだ。お前たちも披露宴を開けていないだろう」
「え、えぇえ!? ちょっ……!」
ディーズベルダが思わず吹き出しそうになりながらも声を上げた。
隣のエンデクラウスはというと、肩をすくめるようにして微笑む。
「確かに、俺たちは当時、追放された身でしたからね。披露宴どころではなかった。
ディズィに任せますよ」
あっさりとしたその受け答えに、ディーズベルダは一瞬きょとんとした後、じわりと頬を緩める。
ベインダルはふたりを交互に見やりながら、改めてベリルに視線を戻す。
「披露宴をしたくないわけじゃないだろう、ベリル。
お前に色々あるのは分かる。
だが、私とリセ、そしてディーズベルダたちの招待客と合同で開けば……
少しは、気が楽になるんじゃないか」
兄としての気遣いがにじむその言葉に、ベリルコートの目元がかすかに揺れる。
「……に、兄様……」
込み上げるものをこらえるように、口元をそっと手でおさえる。
その目は少し潤んでいて、頬にはかすかな赤みが差していた。
(……こんなふうに、背中を押してくれるなんて……)
照明の落ち着いた光の中、教皇がそっと身を寄せる。
その仕草は自然で、誰よりもベリルの心の揺れを理解していた。
「……ベリがしたいように」
その声は低く、耳元にだけ届く甘やかな囁きだった。
ベリルコートは思わず顔を向ける。
その目に、教皇の穏やかな笑みが映る。
「ほ、本当に……いいんですか……?」
いつになく弱々しいその問いかけに、教皇は微笑みながらゆっくりと頷いた。
そして――
「はい」と、エンデクラウスが。
「もちろんよ」と、ディーズベルダが。
エンリセアもまた、やわらかな笑みを浮かべながら、頷く。
四方から届くあたたかな眼差しに、ベリルコートはしばし沈黙し、瞳を閉じた。
そのまつ毛がわずかに震え――やがて、ゆっくりと顔を上げた。
「……お願いします」
そう口にしたその声には、はっきりとした強さがあった。
微笑んだ頬には、ほんの少しだけ、涙のあとがにじんでいた。
けれど、誰もそれを指摘はしなかった。
その涙はきっと、今この場でだけ、そっと流れていいものだったから。
ディーズベルダは、そんな弟の横顔を見守るように微笑んでから、軽く声を上げる。
「ということは……披露宴は、1年後くらいかしら?」
「そのつもりだ」
ベインダルが静かに頷く。
「良かったですね、ベリ。
とても気にしていらしたので……心配していましたから」
教皇の隣で、ベリルコートが小さく頷き、視線を伏せる。
その肩に触れるように教皇の指先がそっと置かれ、ふたりの間に言葉にならないやりとりが通じ合っていた。
そんな和やかな空気の中で――
ディーズベルダの視線は、ふと斜め向かいの両親に向く。
(……あー……やっぱりね)
彼らは無言のままグラスを両手で持ち、どこかぎこちない笑みを張りつかせていた。
無理に談笑に加わるわけでもなく、ただ静かに空気を伺うように俯きがちで――
(そりゃそうよね。私達はもう慣れてるけど……教皇様が普通に座ってるこの状況、異質過ぎるもの)
王都でも屈指の由緒正しいレストランの、重厚な個室。
高貴なローブ姿の教皇がワイングラスを持って微笑んでいる光景は、なかなか現実味が薄い。
(よし。こういうときこそ――出番よ、クラウディス)
「お父様、お母様。
クラウディスを……抱っこしてあげてくださいな」
ディーズベルダがそう声をかけると、父と母は同時に顔を上げ、目を丸くした。
「……い、いいのか?」
父が恐る恐る問えば、ディーズベルダはにっこりと頷く。
「えぇ。もちろん」
すると、まるで待ってましたと言わんばかりに、クラウディスが身を乗り出し――
「じーしゃま! ばーしゃまっ!」
と元気に声を上げながら、両親のほうへ両腕を伸ばした。
その瞬間、両親の表情がぱっと和らぐ。
「ははは……顔はクラウス君にそっくりだが、髪色は息子たちと同じだな……」
と、父はどこか照れたように笑いながら、クラウディスを腕に抱き上げる。
「そうね……。とっても可愛いわ」
母も微笑みながら、そっとクラウディスの手を握る。
抱っこされたクラウディスは、すっかり甘えモードになって、ふたりにぴとっとくっついていた。
くすぐったそうに笑いながら、懐にすっぽり収まり、慣れたように頬を寄せてくる。
その様子に、ディーズベルダはこっそりと胸を張る。
(ふふ……さすが我が息子。空気を読む力も、甘え上手も、見事な武器よね)
と――隣からぽつりと低い声。
「……ディズィ。息子を道具にしましたね?」
いつの間にかグラスを置いたエンデクラウスが、斜め下からじとっと視線を向けてきた。
「ち、違うわよ。抱っこさせたことなかったでしょ? 今のうちに慣れてもらおうと思っただけ!」
焦りながら言い訳するディーズベルダに、エンデクラウスは半眼のまま肩をすくめる。
「……ふむ。巧妙な策ですね、さすが我が妻」
その苦笑に、ディーズベルダは思わずぷっと吹き出した。
そうして、クラウディスの柔らかい笑い声と、大人たちの笑みがひとつ、またひとつ――
ゆっくりと、食卓の空気をまあるく温めていった。




