180.金の上に積もった後悔。
――幻想的だった式も終わりを迎え、中央神殿の中では、参列者たちが静かに席を立ちはじめていた。
煌びやかな光もゆっくりとフェードアウトし、神殿内は徐々に現実の静けさへと戻っていく。
ベインダルも立ち上がろうと、隣のエンリセアへ手を差し伸べる。
「リセ、行くぞ。この後は家族で食事会だ」
だが――
エンリセアはそのまま席から動こうとせず、ベインダルの手をそっと見つめたまま小さく口を開いた。
「……ベインダル様……」
その声の調子に、ベインダルは一瞬眉を寄せる。
その表情を見て、彼は静かに腰を戻し、もう一度彼女の隣に座り直した。
周囲の参列者たちは席を離れ、教会の神官たちが祭壇周辺の片付けに動き出していた。
そのざわめきの中で、ふたりの会話だけが、まるで時が止まったようにぽつりと始まる。
「……どうした。何か、あったか」
ベインダルが低く問いかけると、エンリセアは一度視線を落としてから、小さく頷いた。
「先ほどの……ベリルコートお義兄様の話を……少し、聞いてしまって」
彼女の瞳は揺れていた。
前列に座っていたアイスベルルク侯爵家の話が、祝福の余韻とともに漏れ聞こえていたのだ。
ベインダルは小さく溜息をついた。
「……あまり……触れられたくない過去ではあるな……」
「触れたくない……ですか?」
エンリセアの問いはまっすぐで、遠慮のない声だった。
「……あぁ。俺自身、弟を――見て見ぬふりをして過ごしてきたからな」
言葉の重さに、エンリセアの目がわずかに見開かれる。
ベインダルは、その視線から逃げるように前を向き、神殿の奥をじっと見つめながら話し続けた。
「……当時、アイスベルルク侯爵家は酷く貧しかった。
父には商才がなく、負債だけが膨らみ、両親は家を守るのに必死だった。
俺たち子供は――見捨てられていたも同然だった」
声は淡々としていたが、その下にある感情は痛みと後悔で滲んでいた。
「ろくに食事も与えられず、妹――ディーズベルダはいつも衰弱していた。
そんな中でも、なぜかベリルコートだけは、良い服を与えられ、上品な食事を与えられ、
マナー講師までつけられていた」
「それって……」
「……わかっていた。
弟がその代償に、どれほどのものを“差し出していたか”も……うすうす、気づいていた」
苦しげに眉を寄せ、彼は拳を膝の上で強く握った。
「それでも、俺はその手を振り払った。
“恵まれているくせに、我慢しろ”と、そう言ってしまったんだ。
……俺は兄として、失格だ。弟を守るどころか……」
ふと、言葉が途切れる。
「……今思えば、後悔しかない。
けれどその後悔さえ、妹が家を建て直してくれたからできるようになった“贅沢な後悔”にすぎん。
……俺の後悔は、“金の上に乗っている”」
その声は自嘲混じりだった。
彼は視線を落とし、ぽつりと呟く。
「…………失望したか?」
エンリセアは小さく首を横に振る。
そして、そっとベインダルの袖をぎゅっと握った。
「……いいえ。
私も……もし同じ立場にいたら、そう思っていたかもしれません」
彼女の声は、涙を含んでいた。
けれどそれは、責める声ではなく、共に背負おうとする人の声だった。
「……貧しさは、人を変えます。
でも――その逆も、きっとそうですよね」
エンリセアがそっと言葉を結ぶと、ベインダルは静かに頷いた。
その目はまっすぐ前を見据え、硬く閉ざされていた心の扉が、ゆっくりと開かれていく。
「……だから、俺はやる。今、自分にできることを」
それは、過去の償いではなかった。
失った時間や罪を取り戻すためではなく、これからの未来に、誰かが同じ苦しみを背負わないように――そう願う者の覚悟だった。
「俺が侯爵家を継がねば、次にその重責を背負うのは……ベリルコートだ。
もう、あの子に何も背負わせたくない」
ベインダルは、淡々と、だが力強く言った。
その声には、確かな責任と、優しさが滲んでいた。
「それを防ぐことこそが――今の俺にできる、たった一つの役目なんだ」
隣でその言葉を聞いていたエンリセアは、そっと息をのんだ。
彼の横顔を見つめるその瞳に、わずかに揺れる光が宿る。
(……やっと、わかった気がする)
なぜこの人が、あれほどまでに形式を重んじるのか。
なぜ、誰よりも貴族としての自覚と責務に固執してきたのか。
そのすべては――誰かを犠牲にしないためだった。
「……ベインダル様」
声に出すより早く、彼女の手が、そっと彼の袖を握っていた。
そしてその想いは、言葉にせずとも、しっかりとエンリセアの胸に届いていた。
「私は……あなたの選んだ未来を、共に歩いていきたいです。
どんなに伝統が重くても、過去が苦しくても。
――あなたの傍で、隣に立ちたいと思っておりますわ」
その声は、揺るがぬ決意に満ちていた。
ただの慰めではない。
彼が背負ってきたものすべてを、知ったうえで“共に生きる”と告げる覚悟。
ベインダルはしばし黙ったまま、彼女の瞳をまっすぐに見つめた。
やがて、小さく息を吐くと――わずかに口元を緩めて呟く。
「……まだ小娘のくせに、なかなか言うじゃないか」
「ふふっ。わたくしのベインダル様への愛を、舐めないでくださいまし」
いたずらっぽく返すエンリセアの瞳は、どこまでも澄んでいて、
まるで光を反射するように、柔らかく彼の心を照らしていた。
「……リセ」
その名を、そっと呼ぶ声は――
いつものような毅然とした響きではなく、少しだけ戸惑いと照れを含んでいた。
けれど、そこにはたしかに“ぬくもり”があった。
ふたりの間に、ふわりと温かな空気が流れる。
重さも痛みも、少しずつ解けていくように。
エンリセアは優しく微笑み、ゆっくりと立ち上がると――
そっと手を差し出した。
「そろそろ、皆のもとへ行きましょう」
その手には、過去の後悔も、未来の希望も、すべてを包み込むような優しさがあった。
ベインダルは一瞬だけ目を伏せ――
やがてその手を、しっかりと握り返した。
言葉はなくとも、それが彼のすべての想いの返答だった。
ふたりは並んで歩き出す。




