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180/188

180.金の上に積もった後悔。

――幻想的だった式も終わりを迎え、中央神殿の中では、参列者たちが静かに席を立ちはじめていた。


煌びやかな光もゆっくりとフェードアウトし、神殿内は徐々に現実の静けさへと戻っていく。


ベインダルも立ち上がろうと、隣のエンリセアへ手を差し伸べる。


「リセ、行くぞ。この後は家族で食事会だ」


だが――


エンリセアはそのまま席から動こうとせず、ベインダルの手をそっと見つめたまま小さく口を開いた。


「……ベインダル様……」


その声の調子に、ベインダルは一瞬眉を寄せる。

その表情を見て、彼は静かに腰を戻し、もう一度彼女の隣に座り直した。


周囲の参列者たちは席を離れ、教会の神官たちが祭壇周辺の片付けに動き出していた。

そのざわめきの中で、ふたりの会話だけが、まるで時が止まったようにぽつりと始まる。


「……どうした。何か、あったか」


ベインダルが低く問いかけると、エンリセアは一度視線を落としてから、小さく頷いた。


「先ほどの……ベリルコートお義兄様の話を……少し、聞いてしまって」


彼女の瞳は揺れていた。

前列に座っていたアイスベルルク侯爵家の話が、祝福の余韻とともに漏れ聞こえていたのだ。


ベインダルは小さく溜息をついた。


「……あまり……触れられたくない過去ではあるな……」


「触れたくない……ですか?」


エンリセアの問いはまっすぐで、遠慮のない声だった。


「……あぁ。俺自身、弟を――見て見ぬふりをして過ごしてきたからな」


言葉の重さに、エンリセアの目がわずかに見開かれる。


ベインダルは、その視線から逃げるように前を向き、神殿の奥をじっと見つめながら話し続けた。


「……当時、アイスベルルク侯爵家は酷く貧しかった。

父には商才がなく、負債だけが膨らみ、両親は家を守るのに必死だった。

俺たち子供は――見捨てられていたも同然だった」


声は淡々としていたが、その下にある感情は痛みと後悔で滲んでいた。


「ろくに食事も与えられず、妹――ディーズベルダはいつも衰弱していた。

そんな中でも、なぜかベリルコートだけは、良い服を与えられ、上品な食事を与えられ、

マナー講師までつけられていた」


「それって……」


「……わかっていた。

弟がその代償に、どれほどのものを“差し出していたか”も……うすうす、気づいていた」


苦しげに眉を寄せ、彼は拳を膝の上で強く握った。


「それでも、俺はその手を振り払った。

“恵まれているくせに、我慢しろ”と、そう言ってしまったんだ。

……俺は兄として、失格だ。弟を守るどころか……」


ふと、言葉が途切れる。


「……今思えば、後悔しかない。

けれどその後悔さえ、妹が家を建て直してくれたからできるようになった“贅沢な後悔”にすぎん。

……俺の後悔は、“金の上に乗っている”」


その声は自嘲混じりだった。

彼は視線を落とし、ぽつりと呟く。


「…………失望したか?」


エンリセアは小さく首を横に振る。

そして、そっとベインダルの袖をぎゅっと握った。


「……いいえ。

私も……もし同じ立場にいたら、そう思っていたかもしれません」


彼女の声は、涙を含んでいた。

けれどそれは、責める声ではなく、共に背負おうとする人の声だった。


「……貧しさは、人を変えます。

でも――その逆も、きっとそうですよね」


エンリセアがそっと言葉を結ぶと、ベインダルは静かに頷いた。

その目はまっすぐ前を見据え、硬く閉ざされていた心の扉が、ゆっくりと開かれていく。


「……だから、俺はやる。今、自分にできることを」


それは、過去の償いではなかった。

失った時間や罪を取り戻すためではなく、これからの未来に、誰かが同じ苦しみを背負わないように――そう願う者の覚悟だった。


「俺が侯爵家を継がねば、次にその重責を背負うのは……ベリルコートだ。

もう、あの子に何も背負わせたくない」


ベインダルは、淡々と、だが力強く言った。

その声には、確かな責任と、優しさが滲んでいた。


「それを防ぐことこそが――今の俺にできる、たった一つの役目なんだ」


隣でその言葉を聞いていたエンリセアは、そっと息をのんだ。

彼の横顔を見つめるその瞳に、わずかに揺れる光が宿る。


(……やっと、わかった気がする)


なぜこの人が、あれほどまでに形式を重んじるのか。

なぜ、誰よりも貴族としての自覚と責務に固執してきたのか。


そのすべては――誰かを犠牲にしないためだった。


「……ベインダル様」


声に出すより早く、彼女の手が、そっと彼の袖を握っていた。


そしてその想いは、言葉にせずとも、しっかりとエンリセアの胸に届いていた。


「私は……あなたの選んだ未来を、共に歩いていきたいです。

どんなに伝統が重くても、過去が苦しくても。

――あなたの傍で、隣に立ちたいと思っておりますわ」


その声は、揺るがぬ決意に満ちていた。

ただの慰めではない。

彼が背負ってきたものすべてを、知ったうえで“共に生きる”と告げる覚悟。


ベインダルはしばし黙ったまま、彼女の瞳をまっすぐに見つめた。

やがて、小さく息を吐くと――わずかに口元を緩めて呟く。


「……まだ小娘のくせに、なかなか言うじゃないか」


「ふふっ。わたくしのベインダル様への愛を、舐めないでくださいまし」


いたずらっぽく返すエンリセアの瞳は、どこまでも澄んでいて、

まるで光を反射するように、柔らかく彼の心を照らしていた。


「……リセ」


その名を、そっと呼ぶ声は――

いつものような毅然とした響きではなく、少しだけ戸惑いと照れを含んでいた。


けれど、そこにはたしかに“ぬくもり”があった。


ふたりの間に、ふわりと温かな空気が流れる。

重さも痛みも、少しずつ解けていくように。


エンリセアは優しく微笑み、ゆっくりと立ち上がると――

そっと手を差し出した。


「そろそろ、皆のもとへ行きましょう」


その手には、過去の後悔も、未来の希望も、すべてを包み込むような優しさがあった。


ベインダルは一瞬だけ目を伏せ――

やがてその手を、しっかりと握り返した。


言葉はなくとも、それが彼のすべての想いの返答だった。


ふたりは並んで歩き出す。



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