18.夜の寝室で
夜の静けさが寝室を包み込む。
ベッドの上で、並んで横になりながら、ディーズベルダは隣にいるエンデクラウスの横顔をじっと見つめた。
穏やかに目を閉じているが、いつもの余裕に満ちた雰囲気とは違う。
どこか考え込んでいるような、そんな印象を受けた。
「ねぇ、今日の昼間、なんだか浮かない顔をしてなかった?」
そう問いかけると、エンデクラウスは軽くまばたきをし、ゆっくりとこちらを向いた。
「え?」
彼は驚いたように目を開く。
ディーズベルダは少し戸惑いながらも、視線を落とし、シーツを指先でなぞりながら続けた。
「そ、その……毎日一緒にいるんだから……。流石に気になっちゃって……。」
「……。」
「距離も近いし……。」
そう言ってから、改めて自分の発言に気づき、思わず顔が熱くなる。
普段は意識していないけれど、確かにこうして夜を共に過ごしているのは"夫婦"だからこそだ。
エンデクラウスは少し驚いたように瞬きをした後、ふっと笑みを浮かべた。
「……いえ………なんだか、俺はとてつもなく……役立たずな気がして……。」
「はい!? どこが!?」
ディーズベルダは勢いよく体を起こした。
(どこを探しても、こんな有能な夫はいないわよ!? どういう不安なの!?)
エンデクラウスは、天井を見上げるように視線を向け、静かに言葉を紡いだ。
「俺がもし、いなくても……時間がかかっても、ディズィはきっと今と同じようにここまでやり遂げていたはずです。」
「……。」
「俺がやっているのは、ディズィがやれることを、ほんの少しだけ先回りしてやっているにすぎません……。そう考えると、とてつもなく不安になるんです。」
彼の声は穏やかだったが、滲むのは深い悩みと迷いだった。
「俺には何もない……夫である資格があるのか、半ば無理矢理強引に結婚したことが、いつか足枷になるんじゃないかって……。」
(——半ば無理矢理強引に結婚した自覚はあったんだ。)
ディーズベルダは一瞬、そんなツッコミを入れかけたが、それよりも目の前の彼の表情が気になった。
不安げな瞳。
それは、あの余裕たっぷりなエンデクラウスとは思えないほど弱々しく見えた。
「そんなことないわ。」
ディーズベルダは、彼の頬にそっと手を添えた。
「エンディがいると、心がね、あったかいの。心細いって感じることもないし……。」
「……ディズィ。」
「確かに、あんな感じで結婚したけど……私たち、少しずつ夫婦になっていってるんだと思うの。」
自分でも少し照れくさいが、素直な気持ちだった。
「それに、もうクラウディスもいるし……。だから、そんな不安感じないでよ。」
そう伝えながら、エンデクラウスの頬を撫でると——
彼の目から、静かに涙がこぼれ落ちた。
「……っ。」
「え!? 泣くことないでしょう!? え!?」
ディーズベルダは慌てて身を起こし、彼の顔を覗き込む。
(完璧なエンデクラウスが……涙を流してる!?)
「そんなに不安なの?」
問いかけると、エンデクラウスは微かに笑いながら頷いた。
「はい……。」
ディーズベルダの心が、ぎゅっと締めつけられる。
(どうすれば……。)
前世では男性とお付き合いした経験なんてない。
仕事も図書館司書で、ずっと本と向き合う日々だった。
だからこそ、こういう時にどう慰めればいいのか分からない。
(でも……。)
ふと、思い切った決断をした。
(ええい、もう考えても仕方ないわ……!)
ディーズベルダはそっと彼の顔を引き寄せ——
唇を重ねた。
「——っ!」
エンデクラウスの瞳が、大きく見開かれる。
(……人生二回目のキス。最初は、結婚式の教会で……。)
思い出すと、恥ずかしさが込み上げる。
しかし——
次の瞬間、エンデクラウスの腕が彼女の体をしっかりと抱き寄せた。
「え、エンディ……!?」
ディーズベルダは驚き、思わず身を強張らせる。しかし、その腕の温もりがあまりにも心地よくて、逃げるタイミングを失ってしまった。
彼は、ゆっくりと顔を近づけてくる。
紫の瞳が揺れ、囁くような声が耳元に落ちた。
「そうですね……泣いている場合ではないですよね。」
「え?」
唐突な言葉に、ディーズベルダは戸惑いながらも彼を見上げる。
「約束しましたよね?」
「……何の話?」
エンデクラウスは、まるで何でもないことのように、淡々とした口調で言った。
「良い頃合いに、ちゃんと子供を作ると。」
「え?」
彼の言葉の意味がすぐに理解できず、一瞬思考が止まる。しかし、次第に頭の中で言葉が整理され、何を言われたのかを理解した瞬間——
「え? ……え!?」
全身に一気に血が上り、ディーズベルダの顔が一気に真っ赤になる。
「こ、こ、こ、子供って……!? ちょっと待って……!」
「待つ理由がありませんよね?」
エンデクラウスは、まるで当然のように言う。しかし、ディーズベルダにとっては全く当然ではない。
「いや、ちょ、ちょっと待って! だって、そんな急に……!」
焦る彼女をよそに、エンデクラウスはいつもの余裕たっぷりな微笑みを浮かべながら、さらに距離を詰める。彼の紫の瞳が真っ直ぐに彼女を捉え、まるで逃がすつもりがないとでも言うように。
「良い頃合いです。」
「よ、良い頃合いって何よ!? そ、そんなの私が決め……」
「俺も決める権利がありますよね?」
耳元で囁かれる低い声。その言葉に込められた確固たる意思に、ディーズベルダは思わず息を飲んだ。
エンデクラウスの腕が、さらに彼女を引き寄せる。体温が重なり、心臓の鼓動が余計に速くなる。
「いやいやいや! ま、まだ心の準備が……!」
「俺はできています。」
「はやっ!!」
「それに、ディズィも……もう夫婦として、そういうことを考えてもいい時期だと思いませんか?」
そう言って、エンデクラウスはディーズベルダの頬にそっと手を添える。優しく撫でるような指先に、彼女の肌がほんのりと熱を帯びる。
(こ、こんなの……! どうやって逃げれば……!)
普段は冷静でどんな状況でも対処できるディーズベルダだったが、今ばかりは頭が真っ白だった。こんなに意識してしまうなんて……まさか、彼が涙を流した姿を見たから?
(も、もう! 私がこんなに混乱してるの、絶対面白がってるでしょう……!?)
しかし、彼の瞳を覗き込むと、そこにあるのは純粋な想いだった。不安を抱えていたのは、彼も同じ。
一緒にいることで救われるのは、彼女だけではなく、彼もなのだ。
「……エンディ。」
ディーズベルダは、そっと彼の胸に手を添えた。
「……もう、意地悪しないで。」
「意地悪ではありませんよ?」
「うそ。私の反応を見て楽しんでるでしょう。」
エンデクラウスは、それを否定しなかった。むしろ、微かに笑みを浮かべている。
(やっぱり! でも……。)
彼の腕の中は、温かかった。この温もりを信じてもいいと思えるほどに。
「……もう。」
ディーズベルダは観念したように、小さく息を吐くと、彼の胸に顔を埋めた。
「……わかったわ。でも、優しく…してね。」
「はい。」
「……信じてるわよ?」
「もちろん。」
本当に不安だったのか、それとも彼の策略にはまったのかわからない。
だが、彼の言葉を最後に、寝室の灯りが静かに消え——
こうして、二人は夫婦として、また一歩進むことになったのだった。




