179.静かなる祝福は、心の奥に降り注ぐ。
神殿内は、静かに、そして確かに――
現実から切り離されたような、幻想的な空間へと変貌していった。
天井近くの空間に、淡い光を含んだ雪の結晶がふわりと現れる。
それは音もなく、まるで夢の欠片のようにふわふわと降りてきて、
人々の頭上に届く寸前――すっと空気に溶けるように消えていく。
「……っ」
誰からともなく小さな感嘆の声が漏れた。
息を呑む音、微かなささやき、そしてそれを打ち消すような荘厳な沈黙――
そのなかで、ゆっくりと、神殿の扉が開いた。
差し込んだ光に照らされながら、二つの影が静かに歩みを進める。
先頭に立つのは、白地に薄く淡い金の華が咲き誇る、絹の着物に身を包んだ概念の兄――ベリルコート。
その美しさは、もはや言葉では語れない域に達していた。
背筋をすっと伸ばし、ひとつひとつの所作は優雅で慎ましく、それでいて凛とした芯の強さを纏っていた。
儚さと誇りが同居するような歩き方――その姿はまさに、“美の結晶”そのものだった。
そして隣に立つのは、白地に金の刺繍が施された神聖衣装を纏った教皇。
その衣装は、これまでのどの“教皇衣装シリーズ”よりも荘厳で、まるで神そのものの化身のような威厳を放っていた。
二人が並んで歩くたび、床に反射する光までもが神聖な紋様を描き出す。
その歩みに合わせるように、天井から降る結晶も柔らかく舞い、祝福のようにふたりを包み込んでいた。
あまりの美しさに、参列者の中には思わず息を止め、ひざから崩れ落ちる者も出ていた。
頬を赤らめ、胸元を押さえ、目を潤ませながら目を逸らせなくなる貴族もいれば、
耐えきれずにその場で静かに気絶する者まで現れる始末。
(……なんなの、あの並びは)
ディーズベルダは思わず目を細め、両手を膝の上で握りしめる。
それはまるで“二次元”が三次元に顕現したような……いや、もう“現象”のような存在だった。
歩くベリルコートの表情は、どこか緊張と恥じらいを感じさせながらも――
その目元には、はっきりとわかる“幸福の光”が宿っていた。
隣にいることが、嬉しくて仕方ない。
それでも目立つことが恥ずかしくて、思わず背筋がぴんと伸びる。
そんな感情が表情の端々からにじみ出ていた。
それを見た父が、ぽつりと呟く。
「……ベリル……」
その声には、懐かしさ、驚き、そして胸を満たすような安堵が混ざっていた。
やがてふたりは祭壇の前にたどり着く。
けれど、その壇上には誰の姿もなかった。
神殿内は、息を潜めたような静寂に包まれている。
――まるで、神すらもこの瞬間は見守るだけに徹しているようだった。
壇に立つ必要などない。
この場に、ふたり以外の存在は要らない。
教皇とベリルコートは、正面を向いたまま、視線を合わせ――
互いに、たったひとつの誓いを、言葉にして紡いでいく。
世界が止まり、光だけが舞う。
そんな中で――教皇が、そっとベリルコートの手を取る。
その手はあたたかく、けれど緊張のせいか、わずかに震えていた。
彼はゆっくりと、慎重に指輪を持ち上げ、ベリルの薬指へと通す。
「……喜んでいただけると……嬉しいのですが……」
小さく、柔らかな声だった。
教皇が珍しく、ほんの少し不安そうに微笑みながら呟く。
ベリルコートは驚いたように目を見開き――
はめられた指輪をそっと見つめた。
「こ……これは……」
それは、繊細な意匠の銀環の内側に、
ふたりの名を示す古代文字と、美しい小さな蓮の花が彫り込まれた唯一無二の指輪だった。
「……私自ら、作りました」
教皇の言葉に、ベリルコートの瞳がゆっくりと潤む。
声には出さず、ただ――心からの笑みを浮かべる。
それは、見ている者すべての胸にあたたかい波紋を広げていく、幸福のかたち。
そして――
ふたりは互いに視線を合わせ、迷いなく近づき、そっと唇を重ねた。
その瞬間。
天井から降り注いでいた雪の結晶がふっと空気に溶け、
代わりに、黄金の蓮の花びらがふわり、ふわりと舞い降りてきた。
一枚、また一枚――
降っては、ふわりと光の粒となって消え、
また次の花びらが生まれる。
神聖で、温かくて、まるで天上からの祝福そのもののように。
誰からともなく拍手が起こり、
やがてそれは神殿全体に広がっていく。
静かで、けれど確かな祝福の音が、ふたりの背を優しく押した。
拍手の中、教皇は再び指先を動かし――
祭壇に置かれた婚姻証に、自らの手で聖印を刻んでいく。
鮮やかな金の光が紙面に刻まれ、
それは、永遠の契約として、世界に刻み込まれた。
「……さあ、行きましょう」
指先でそっと手を取る教皇に、ベリルコートは笑顔で頷いた。
「……はい!」
その声は、震えていた――けれど、涙がにじむほどの幸せがにじんでいた。
ふたりは肩を並べて、ゆっくりと歩き出す。
歩幅を揃えて、堂内を進むその姿は、まるで絵画のように美しく――
ベリルコートは、教皇の顔を、まっすぐに見つめていた。
その瞳には、ただただ喜びと、愛しさと、信じられないほどの安心感が宿っている。
教皇もまた、穏やかに笑みを浮かべ、
隣を歩く“唯一の伴侶”を、慈しむような眼差しで見つめ返していた。
ふたりの間には、言葉よりも深く、
祈りよりも静かで、確かな絆が、そこにあった。
扉の先には、陽光が差し込んでいる。
そしてふたりは、優雅に、ゆっくりと――
すべての祝福を受けながら、その中を歩いていった。
神殿の扉の先にはやわらかな光が満ち、花の香りと拍手が交差するなか――
ディーズベルダは、ふと両親の方へ視線を向けた。
そこには、静かに肩を震わせる母の姿があった。
そして、その隣で背を丸める父の横顔も――どこか苦しげに歪んでいた。
「……お父様? お母様……」
そっと声をかけると、母は小さく顔を横に振りながら、目元を覆った手を外す。
「……あの子が……“幸福”という名のもとに、心から微笑んだ瞬間――」
その瞳には、溢れる涙と共に、長い年月に蓄積された後悔が浮かんでいた。
「私は、ようやく……気づいたの。どれほど非道な“取引”を、彼に背負わせていたかを……」
震える母の声には、明確な罪の意識が刻まれていた。
かつて、己の子に――身体を代価にさせてまで、家を守らせた女の声だとは、信じたくなかった。
隣の父も、眉を深く寄せ、拳を膝の上で固く握り締める。
「言うな……。それを選ばせたのは、私のせいでもある。
私が……不甲斐ないばかりに……」
その声には、静かな怒りと、己への悔しさが滲んでいた。
かつて家を守ることができず、結果的に“息子の尊厳”を差し出すことになった男の声だった。
ディーズベルダは、ゆっくりと両親の手を見下ろす。
(このふたりは……お兄様に、本当に許されないことをしていた)
思い出す。
自分が前世の記憶を宿し、9歳の頃から動き始めたこの家の再建。
けれどそれまでは、兄が家を支えるために――
“夜”を、“対価”にしていた。
望んでなどいなかった。
ただ、生きるために。
家を守るために。
自分を殺して。
(それを……この人たちは、知っていたのに)
視線の奥が、じわりと熱くなる。
それでも、ディーズベルダは声を落ち着けて言う。
「……深く、反省して。ずっと、反省し続けてあげて。
そして、祝福してあげて」
それは命令でも、叱責でもない。
ただ、ベリルコートに対する願いを込めた一言だった。
父と母は、その言葉に黙って頷いた。
その瞳に浮かぶ涙が、少しだけ“親”のように見えた。
ディーズベルダは、まっすぐに前を向く。
(――たしかに、家を建て直してからのこの人たちは、変わろうとしてくれた)
(親として、やり直す努力をしてくれた。懸命さもあった)
でも。
(その“懸命さ”がどこか、やっぱり“金で成り立ったもの”に見えてしまう)
それは、過去があまりに重すぎたせい。
自分の心が、深く傷ついていた証。
(……でも、今の涙と後悔だけは――どうか、本物であってほしい)
胸の奥で、そっとそう願った。
それだけが、あの兄がこの先も前を向いて生きていける、ほんの少しの救いになるのだから。