177.概念を超えた着物美人
──ベリルお兄様の結婚式当日。
まだ朝日が昇りきらない頃、中央神殿の控室にはすでに慌ただしい気配が漂っていた。
「……もう、ちょっと動かないで……!」
ディーズベルダは眉間に皺を寄せながら、兄の帯をぐいっと締める。
白と金を基調とした婚礼用の着物は重厚で、細かな刺繍があしらわれた特別仕様。
少しでも歪めばすぐに美しさが損なわれるため、手間がかかるにも程があった。
「帯の結び目……よし。袖、整えて……はい、完成!」
「……本当に? もう動いても平気?」
「動いたらまた直すから覚悟してね」
思わず肩をすくめる兄にそう言いながら、ディーズベルダは汗をぬぐうように額を軽く押さえた。
そしてようやく――侍女たちが入り、顔に淡い紅と光をのせる作業が始まった。
ブラシの音と、香のやさしい香りが控室に広がっていく。
その中で、ベリルコートがぽつりと口を開いた。
「あ……あの……ディズィ……」
「どうしたの、お兄様?」
「……僕、一応“男”なんだけど……どうして化粧まで……?」
「――あ!!!!」
ディーズベルダの手が止まり、目を見開いた。
「そうだった……完全に忘れてたわ……!」
「えぇ!? “兄”って呼んでくれてるのに、忘れてたのかい!?」
「い、いや、だって……綺麗だから……つい……!
でもほら、似合ってるんだし、いいじゃない!」
「そういう問題なのかなぁ……」
唇を引き結びながらも、ベリルコートはどこか諦めたように目を伏せた。
頬にはうっすらと紅が乗り、伏せた睫毛の影が彼の表情に幻想的な深みを与えていた。
「そ、それに教皇様もきっと喜んで下さるわ。ね?」
と、にっこり笑って励ますディーズベルダ。
その瞬間――
鏡の前に立つベリルコートは、もはや“ただの人間”の域を逸脱していた。
着物を身にまとい、端整な顔立ちは磨き上げた宝石のように艶めき、
透き通るような肌に整えられた化粧が乗ることで、どこか現実離れした美を放っていた。
――それは、次元を超えた存在感。
女性であれば誰もが憧れ、男性であれば誰もが一瞬で心を奪われてしまうであろう、“美の化身”。
もはや三次元を超えて、完全に“概念”の域だった。
「……あ……っ」
鏡越しにその姿を見た侍女のひとりが、口元を押さえ、
そのままカタン、と音を立てて床に倒れ込んだ。
「き、気を確かにっ……!」
慌てて駆け寄った別の侍女も、視線を交わした瞬間、目を回してその場に崩れ落ちる。
「ちょっと……そんな馬鹿な……!」
さすがに呆れたディーズベルダが額に手を当てる。
(まさか、控室で倒れる人が出るとは……)
ベリルコートはというと、いたって真面目な表情のまま、ただ鏡を見つめていた。
そんな空気の中――ディーズベルダがふと思い出したように口を開いた。
「そういえば……本当に、お父様とお母様を呼んで良かったの?」
その問いに、ベリルコートは少しだけ息を止めたように見えた。
だが、ゆっくりと頷き、柔らかな声で返す。
「うん……産みの親だから、ってだけじゃなくて……
今はちゃんと、“親”でいてくれてるから。……来てほしいって、思ったんだ」
その言葉には、これまでの苦しみも、再生も、すべてを受け入れたような、穏やかな重みがあった。
ディーズベルダは静かに頷きながら、その隣に立つ兄を見つめた。
(……本当に、綺麗になったなぁ)
外見だけじゃない。
何か大きなものを乗り越えたあとの人にしか出せない、柔らかな輝きが、今のベリルにはあった。
――そのとき。
控室の扉が「コンコン」と軽やかにノックされた。
「どうぞ」とディーズベルダが声をかけると、ゆっくりと開いた扉の向こうから現れたのは――
「ベインダルお兄様……!」
鏡に向かっていたベリルコートが、驚きと共にくるりと振り返る。
入り口に立っていたのは、変わらず整った顔立ちに威厳を宿す長兄、ベインダル・アイスベルルクだった。
彼の一歩ごとの所作には、いつも通りの落ち着きと自信が滲んでいる。
「やっと結婚か」
そう言って、ふっと笑みを浮かべたベインダルは、弟をまっすぐに見つめる。
「まさか、兄弟の中で私が一番最後になるとはな」
「あっ……確かに」
思わず笑みを漏らしたのはディーズベルダ。
「でも、お兄様なら、もういつでも結婚しようと思えばできるじゃない」
それにベインダルは「ふむ」と軽く腕を組み、窓の方に視線を向けた。
「確かにな。だが……リセが成人するまでは、待つつもりだ」
その言葉に、ディーズベルダとベリルコートは一瞬、目を見合わせる。
(やっぱり真面目だわ……でも、そこがベインダルお兄様らしい)
その一方で、ベリルコートは少しだけ戸惑ったように視線を落とし、そっと声を漏らした。
「……怒って……ないんですか? 兄様……」
ベインダルは、きょとんとしたように瞬きをし、眉をひそめた。
「怒る? 何故だ?」
「だって……その……僕、女性と……結婚しなかったから……」
しぼり出すような声だった。
ベリルコートは、長年胸の奥に引っかかっていた言葉をようやく吐き出した。
だが――
「……私は、一度だって、お前に“女性と結婚しろ”と言った覚えはない」
「えっ……?」
思わず顔を上げたベリルの目に映ったのは、ただ真っ直ぐに自分を見つめるベインダルの瞳だった。
「確かに、“結婚したらどうだ”とは何度か言ったが……それは――まあ……なんだ、その……」
言葉を選ぶように口ごもる兄の姿は、普段の鉄壁さからは想像できないほど人間味があった。
「……お前が、ちゃんと誰かに“祝福されて”生きてほしいと思ったから、だ」
その言葉に、ベリルコートの瞳がほんのりと潤む。
「兄様……」
「何を泣くんだ。式の前だろう。化粧が崩れる」
少しだけ照れたように顔を背けたベインダルの横顔を見て、
ディーズベルダは思わず、胸の奥にじんわり広がる微笑ましさを噛みしめた。
(不器用で、優しくて……いつも肝心なところで黙ってるけど……)
兄のそういうところを思い出して、胸が少しだけあたたかくなる。
そのとき、ベインダルがふと彼女の方へ視線を向けた。
静かで、でも何かを含んだような目――
言葉の前に、空気が一瞬だけ変わるのを感じた。
「そういえば、ディーズベルダ」
その名を呼ばれた瞬間、ディーズベルダは姿勢を正す。
普段はあまり多くを言わない長兄の口ぶりには、どこか重みがあった。
「ここは任せて、外へ行った方がいい」
「……はい?」




