176.神は言った。「まだ未実装です」
──王都、ルーンガルド邸。
格式ある石造りの邸宅の一室――執務室には、朝から規則正しい筆音が響いていた。
広い机を挟んで向かい合うのは、エンデクラウスとディーズベルダ。
真剣な眼差しで書類に目を通しながら、時折視線を上げ、
「この件は、税の軽減より先に道の整備を優先した方が――」
「うん、そうね。村側の物流も止まってるし、予算の再配分でなんとかなるかも」
と、互いに冷静に、かつスムーズに意見を交わしながら、次々と案件を処理していく。
夫婦とはいえ、政治の場では対等。
二人の間に言葉は少なくとも、必要な情報は即座に伝わり合う、まるで長年連携してきた参謀同士のような空気があった。
……そんな様子を、部屋の隅でふわふわと浮くようにソファにもたれ、
ぼんやりと眺めている人物がひとり――教皇である。
腕を組み、どこか“退屈だな”と言いたげな顔で、口には熱い紅茶を運びながら。
(……あの人、ずっと居るわね)
ディーズベルダは書類から顔を上げて、つい耐えきれずに声をかけた。
「あの……教皇様。結婚式の準備とか、しなくて大丈夫なんですか?」
すると教皇は、まるで待ってましたと言わんばかりに笑みを浮かべて返す。
「えぇ。部下に準備を進めるよう命じてありますし、式のプランも細部まできっちり練ってあります。
あとは、その日を静かに待つだけ、ですね」
あっけらかんと言い放つその態度に、ディーズベルダは思わず目を細める。
(……なんっか、やりづらい)
式の準備もせず、当たり前のように隣のソファでお茶を飲みながら執務の様子を見守る教皇。
気配を消しているようで、決して“いないこと”にはならない存在感。
心なしか、エンデクラウスも背筋がやや硬い気がする。
(ていうか、そもそもなんでここに“居座ってる”のかしら……)
ちらりと視線を送ると、教皇はちょうどおかわりの紅茶を淹れながら、またにっこりと笑った。
一方で、ベリルコートの姿は邸内になかった。
さすがに貴族参列者の招待と調整に追われているらしく、今日は朝から外出中のようだった。
それもそのはず――
教皇とベリルコートの結婚は、同性婚として前代未聞……ではないが、極めて稀な事例。
(アイスベルルク侯爵家、一気に全国区になっちゃったわよね……)
そう思わずにはいられなかった。
長兄ベインダルは、エンリセアちゃんとの舞踏会での美しい立ち振る舞いが話題となり、
次兄ベリルコートは教皇の伴侶として、文字どおり国民の注目の的。
そして――
(私は一時、王都追放されて……でもその後、国一番のイケメンと結婚してるっていう……)
振り返れば、なんとも波乱万丈。
あのときは“終わった”と思っていた人生が、気づけば世間に名前を知られすぎるほどの存在になっていた。
(……もう、この3兄弟の顔、国に知れ渡り過ぎてるわよ……)
呆れるような、でもちょっと誇らしいような。
そんな複雑な気持ちを胸に、ディーズベルダはため息混じりに羽ペンを走らせていた。
机に置かれたカップの紅茶はいつの間にかぬるくなり、書類の端には無意識のうちにつけたインクのしみがぽつんと残る。
そんな折、ふと気になったことが口をついて出た。
「そういえば……ここの“大陸の外”って、どうなってるんですか?」
パタンと書類を閉じながらそう尋ねると、ソファに座っていた教皇が、ちょうどスプーンでプリンをすくう手を止めた。
「大陸の外……ですか?」
一瞬、考えるような仕草を見せたあと――
教皇はにっこりと、人を食ったような笑顔で続けた。
「……ふふふ。まだ作ってません」
「――えぇぇぇ!?」
あまりにもあっさり返されたその言葉に、ディーズベルダは思わず椅子から腰を浮かせかけた。
「地球みたいな感じじゃないの? 海の向こうに別の国とか、そういうの……!」
「異世界ですよ? ここ」
教皇はプリンを口に運びながら、淡々と告げる。
「地球の常識なんて、あるわけないでしょう。
この世界の“常識”とは、私の意向ですから」
にこやかに微笑むその顔が、逆にじわじわと怖い。
(……そうだったわ)
(聞いた私が馬鹿だった……今のは完全に“地球脳”だった……)
こめかみがずきっと痛み、ディーズベルダは額を押さえた。
「……頭が痛い……」
そのぼやきに、すかさず隣のエンデクラウスが首を傾げる。
「ディズィ? どういう意味なのですか?」
その真っ直ぐな問いに、ディーズベルダは“あー、これは説明しづらい”という顔をしつつ、
肩の力を抜いて言葉を選んだ。
「えっとね、つまり……教皇様がこの世界を作った神様ってことよ」
するとエンデクラウスは、ひと呼吸置いてから、落ち着いた調子で答えた。
「……それは……至極当然のことでは?」
「…………。」
ディーズベルダはしばし沈黙し、そして思わずテーブルに額を突っ伏した。
(そうでした。私、完全に“前世の感覚”に戻ってた……)
(この世界に来てもう何年も経つのに、“教皇=神みたいなもの”って、なぜか今さら忘れてた……)
赤面しながら、そっとエンデクラウスの方をうかがうと、彼は不思議そうに瞬きをしていた。
そんなふたりの様子を見て、教皇がふふっと笑いながら紅茶を一口。
「今までの転生者も、みなさん同じような反応でしたよ。
ですから、お気になさらず」
その言葉に、ディーズベルダはますます頭を抱えたくなったのだった。




