172.その姿、もはや人にあらず
──さらに数日後。
ついに、着物が完成した。
純白の絹に、金糸で織られた華の模様が静かに咲き誇る、荘厳かつ繊細な一着。
それはもう、布ではなく“芸術”と呼ぶべき佇まいだった。
仕立ての最終調整と着付けには想像以上の時間を要したが――
完成した姿を前に、誰もが言葉を失った。
ベリルコートは、長い髪を結い上げ、柔らかな白と金の着物を一糸乱れずに身にまとっていた。
背筋をすっと伸ばし、静かに立つその姿は、まるで神殿に降り立った神の化身のようだった。
その美しさには、神々しさすら宿っていた。
「お兄様……すごく似合ってるわ……」
思わず呟いたディーズベルダの声は、自然とため息交じりになっていた。
(というか……着物って、日本人の顔にしか似合わないと思ってたけど――)
目の前に立つベリルコートは、そんな偏見を一瞬で吹き飛ばすほどの“完成された美”。
(お兄様は別格だわ……。似合いすぎる。これでますます、男性なのか女性なのかわからなくなったわね)
その横顔のあまりの儚さに、思わず見惚れてしまうほどだった。
「これが、着物……ですか。ディズィは、着ないのですか?」
隣にいたエンデクラウスが、興味深そうにディーズベルダを見下ろして尋ねる。
「そうね……完成したんだし、1着くらい着てもいいかもね」
肩をすくめながら、彼女は笑う。
「でも、ベリルお兄様みたいに、“教皇様の伴侶”とかじゃないと、公にはなかなか着られないけどね」
その言葉に、教皇が一歩前へ進み、まるで本気か冗談かわからない声で呟く。
「……目に毒ですね。流石の私も、グラッときてしまいます」
その一言に、ベリルコートがふっと顔を逸らす。
白い頬がじわりと紅潮し、長い睫毛の影がその微かな動揺を隠しきれなかった。
(あはは……なんだかんだ言って、やっぱりお似合いだわ。このカップル)
ディーズベルダは内心でふっと笑う。
ほんの数年前までは、こんな未来を想像することさえなかったのに。
「それを着て、結婚式をするんでしょう?」
問いかけると、ベリルコートは少し照れたように視線を下げながら頷いた。
「はい。この国の王女とダックルス辺境伯の式が終われば――
中央神殿で式を挙げる予定……みたいです」
「そっかぁ。披露宴はするの?」
何気ない調子で聞いたその問いに、ベリルコートと教皇は一瞬、視線を交わした。
「いえ、今のところは考えてませんが……」
そう言いかけた教皇の隣で、ベリルコートはふと視線を落とした。
その目は、少しだけ迷いを宿しているように見えた。
その様子を見て、教皇は静かに微笑むと、穏やかな声で言った。
「……やはり、披露宴はやめておきます」
ディーズベルダが驚いて目を見開くと、教皇はそっとベリルコートの頭に手を添える。
「ベリが、やりたくなったらやりましょう。そのときは、盛大に」
その優しい言葉に、ベリルコートはぱっと顔を上げ、
きゅっと教皇の腕にしがみついた。
静かに頷くその横顔は、どこか“少女”のようなあどけなさを湛えていた。
(な、なんだか……お兄様の乙女化が、進んでる気が……)
そう思いながらも、ディーズベルダは口元をそっと抑えて笑いをこらえた。
あの儚くて美しい兄が、今では誰よりも柔らかな顔を見せている。
その変化が、なんだかとても尊くて――
胸の奥がじんわりと温かくなるような、そんな光景だった。
そんななか。
「とはいえ、ディズィ」
すぐ隣から、エンデクラウスの低く穏やかな声が届いた。
「ダックルス辺境伯の結婚式のために、そろそろまた王都へ向かわなければいけませんよ」
「……え、もうそんな時期?」
ディーズベルダはぱちりと瞬きをして、まるで“うっかりしていた”ような顔で彼を見上げた。
「この地は季節の変化がありませんから、感覚がつかみにくいのも無理はないですが――」
エンデクラウスは少し苦笑を含ませながら、そっと肩を竦めた。
「着物作りに、かなりの時間を費やしましたからね。気づけば、暦はもう次の月に入ってますよ」
「そっかぁ……」
ディーズベルダは窓の外に視線を投げた。
相変わらず空は晴れていて、木々も揺れていない。時間が止まっているような感覚――それが、ルーンガルドという地だった。
「ほんと、こっちに来てから日にちの感覚がつかめなくて」
彼女がそうぼやくと、隣でエンデクラウスが口元をゆるめた。
「それは、あなただけですよ、ディズィ」
「うぐっ……言い返せない……」
言いながら頬をぷくっと膨らませるディーズベルダに、ふたりの間にあたたかな空気が流れる。
しかし、そこへ割って入るように、背後から優雅な足音が響いた。
「おっと――それでは、我々も王都へ同行しなければなりませんね」
言ったのは、教皇だった。
白金のローブを翻しながらゆったりと歩み寄ってくるその姿に、エンデクラウスは思わず目を丸くする。
「えっ」
想定外の展開に、短く素っ気ない声が漏れた。
「ふふ」
教皇はその反応に満足そうに微笑みながら、腰に手を当てて続けた。
「言ったでしょう? 私たちは、あなた方夫妻の“味方寄り”だと」
その言葉に、場の空気がわずかに引き締まる。
「スフィーラさんとコーリックさん……どうにもあなた方を“狙っている”ようですので」
教皇は、語尾に淡く棘を忍ばせながら、軽やかに言ってのける。
「ですから、私が直接、祝ってやろうかと――ね?」
にこりと笑うその顔は、いつもの神聖さと優雅さに満ちていた。
その微笑には、あたたかさと慈悲……そして、ぞっとするような“確定力”が含まれていた。
(……あれ? 今、“祝って”って言ったわよね……?)
(どうしてだろう……“呪って”に見えた気がする……)
ディーズベルダとエンデクラウスは顔を引きつらせながらも、にこやかに微笑み返す。
だが、その笑顔の裏でふたりは同時に悟っていた。
――これは、本当に祝われたら最後だ。
教皇が“祝福”するということは、聖属性の加護が正式に降りるということ。
それはつまり、簡単に離婚できなくなるという意味でもある。
しかも、教皇のような高位の者の祝福となれば、その魔法は“加護”というより“契約”に近く、
一度発動されれば――原則、誰にも解除できない。
この国における結婚は、「結婚証」に聖印を受けることで正式な成立とされる。
しかし、問題は“離婚”だった。
この世界では、婚姻関係は“結婚証”が破棄されることで解消される仕組みになっている。
だがその結婚証は、当人の“手元”にずっと現れ続けるという厄介な性質を持っていた。
破棄されないかぎり、魔法的な効力は残り続け、
もし別の誰かと新たに婚姻を結ぼうとすると――
式の直前に、どこからともなくその“古い結婚証”が手元に現れ、式を中断させるのだ。
つまり、正式に“別れ”を成立させなければ、永遠に前へ進めない。
そして今、教皇が“直接祝う”と言っているそれは――その離婚の可能性を根本から封じるものでもあった。
「やっぱり、味方で……よかったわ」
「ええ……本当に、よかったです……」
それはまさに――愛という名の呪い。
しかも、合法かつ解除不能という、完璧な拘束魔法。
そして、そんな教皇の加護によって、既にがっちりと契約を結ばれてしまったふた組の夫婦が、今、並んで立っていた。
――もう逃げ道など、どこにもない。




