170.自動とはいったい……(哲学)
──数日後。
機織り機が設置された西側の作業部屋は、薄明るい光が射し込み、静かに熱気を帯びていた。
ディーズベルダは、手元の糸を確認して思わず声を上げる。
「えぇ!? 糸が……染まってる……?」
手にしていたのは、白と金、二色の上質なシルク糸。
つややかで滑らかなその手触りは、紛れもなく魔物産のそれだったが、見覚えのある生成り色ではなかった。
「はい。魔物の食事内容で色を変えることができるので、それで――」
振り返った教皇が、いつもの柔らかな微笑を浮かべながら説明する。
その手には、糸の入った木箱が丁寧に収められていた。
「本来なら、他の方法で染めますが……できるだけ早く、ベリに着物を着せたくて」
その言葉に、ディーズベルダは小さく瞬きをする。
(……教皇も、人を愛する生き物なのね)
神のような存在に見えがちな彼が、こんなにも人間らしい理由で急いでいたのかと思うと、少し胸が温かくなった。
(まぁ、もとは一般人だったわけだし。当たり前か。どこかで“神様”みたいに思っちゃってた)
「前の世界にいた頃は、シルクって、ぱぱーっと機械に通すだけで、服ができるんだと思ってたのよね」
そう呟きながら、糸を光にかざしてみる。
金糸は角度によって繊細に輝き、まるで光そのものを編み込んだようだった。
「でも……本を読んだ限り、模様を作るのにすっごく計算がいるし、微調整も大変だわ。
糸のテンションも、角度も、間隔も……ぜんぶ細かく合わせないといけない」
「すみません……そういった部分は、私の専門分野ではなくて……」
教皇が申し訳なさそうに肩を竦めた。
「わかってるわ。」
ディーズベルダは苦笑しながら、機織り機の回転軸を軽く指でなぞる。
自動とはいえ、糸の取り付け、設定、パターン入力……すべては人の手によるものだった。
「正直ね、こういうのは誰かに任せて、“私は設計だけ”って思ってたんだけど」
機織り機の横に置かれたベンチに腰を下ろしながら、ため息まじりに言う。
「こんなの、簡単に任せられないし。だから……仕方ないから、最初は私が織るわ」
言いながら、どこか覚悟を決めたように肩を回す。
「でも……機織り機に糸をセットするだけでも、数日かかるのよ。
何人かに覚えてもらった方が良いかも……効率的だし」
その言葉に――
「あ……それなら、僕も……覚えるよ」
声を上げたのは、少し離れて控えていたベリルコートだった。
「僕の着物だし……僕も、ちゃんと手をかけたい。できるなら、協力したいんだ」
表情こそ柔らかいが、瞳の奥にははっきりとした意思の光があった。
その決意に、ディーズベルダも目を細めてうなずく。
「……ありがとう。お兄様。」
「うちの教会の者を、二人呼びましょうか」
教皇がそっと口を開く。
「織物の扱いに長けた者を選びます。慣れていますので、基礎から丁寧に動けるはずです」
「助かるわ。あと、領地の人も一人入れておきたいの」
ディーズベルダが考え込むように指先を顎に添えると――
「それなら、最近ここへ連れてきた、元・ゲルセニア帝国の民を使ってはいかがですか?」
そう進言したのは、側にいたジャケルだった。
彼は小さく頭を下げながら言葉を添える。
「以前、織物職人として働いていた者がいるようです」
「……そうね。そうしましょう」
ディーズベルダは頷き、ひとつ大きく息を吐いた。
(なんだか、すっごい本格的になってきたわね……)
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
そして、正式に織り手を集める手はずが整うと――
ディーズベルダはその間も、ただ待っているだけではいられなかった。
人を集めるには日数がかかる。
教皇の部下が来るまでに数日、領地民の選定と引き渡しにも時間を要する。
だからこそ今、少しでも準備を進めておきたかった。
彼女は機織り機の前に設けた簡易机に向かい、白い和紙を何枚も広げていた。
その上には、精密な線と数字、そして柄の展開図がびっしりと並んでいく。
愛用のボールペンでスラスラと線を引き、
次の紙へ、また次の紙へと筆先は止まらない。
(文様を均等に見せるには、糸の間隔、動き、タイミング……全部計算し直さなきゃ)
思考が深まるたび、額にうっすら汗が滲む。
「模様ひとつに、こんなに手間がかかるなんて……」
ぽつりと呟きながらも、手は止まらない。
時折、机から顔を上げると――目を閉じて、心の中にある“図書館”へと意識を沈めていく。
そこは、前世の知識を収めた、自分だけの“記憶の書架”。
(えっと……確かこの棚の左奥、手織り染織技術の本があったはず……)
心の中で、記憶の図書館の棚を歩き回り、次々と本を引き出してはページをめくっていく。
図案作り、組織図…記憶の中にあるすべての知識が、今この瞬間だけの“武器”になる。
(織りの構造って、数学みたい……でも、だからこそ、ちゃんと解ける)
そう思いながら、再び現実に意識を戻し、和紙の上に線を重ねていく。
ペン先が紙をなぞる音だけが、部屋の静けさの中に小さく響いていた。
(……もう少し、この角度を調整して……)
眉を寄せて紙を覗き込んでいたそのとき――
ふいに、背後からふわりと優しい体温が降ってきた。
「……っ!!」
ディーズベルダは驚きに肩を跳ねさせたが、すぐにその腕が誰のものかに気づく。
背中からそっと抱きしめられた感触に、胸の鼓動が一気に速くなる。
「ディズィ……また寝ないつもりですか?」
低くて落ち着いた声が、耳元でふわりとささやかれた。
「あ……え?」
一瞬思考が追いつかず、目をぱちぱちとさせるディーズベルダ。
「ほら、ペンを置いてください」
やわらかな声音と共に、彼の手がそっと指に添えられ、優しくペンを引き取られる。
その手つきはまるで、壊れ物を扱うように繊細だった。
(……そんな目で見られたら、もう反論なんてできないじゃない)
何も言い返せないまま、力が抜けたその瞬間――
「失礼」
軽やかに、そして迷いなく、エンデクラウスは彼女の体を抱き上げた。
ふわりと浮いた感覚。腕の中にすっぽりと収まる、お姫様抱っこの体勢。
「全く……あなたは旦那をパジャマ姿で廊下に歩かせる天才ですね」
ふっと口元に笑みを浮かべながら、エンデクラウスは肩の力も入れずに歩き出す。
「あ……ごめんなさい。心の図書館と行ったり来たりしてたら、つい……」
ディーズベルダがうつむきながら小さく謝ると、彼はふっと目を細めた。
「電気というものは便利ですが――」
廊下のカーテン越しから月明かりが差し込む中、彼の声が静かに響く。
「……こうしてディズィに無理をさせるから、困ったものです」
まるで機械でも責めるかのような優しい調子で、エンデクラウスは彼女をしっかりと抱えたまま、ゆっくりと寝室へと歩いていった。
その腕の中で、ディーズベルダはほんの少しだけ――
甘やかされていることを、素直に嬉しいと感じていた。