166.おやすみの前に、ちょっと一枚。
鍛錬が終わり、雷光もようやく収まった中庭。
空はまだ青く澄み、風はやさしく吹いているというのに――
エンデクラウスは、芝の上で、ただひたすら“ぽけーっ”と立ち尽くしていた。
肩でゆっくりと呼吸をしながら、視線はまっすぐ前を向いている……が、焦点が合っていない。
まるで魂だけどこかに旅立ってしまったかのように。
「お疲れ様、エンディ……」
ディーズベルダは思わず心配そうに声をかけながら、ベンチから立ち上がった。
膝の上にいたクラウディスも、両手を口元に当てながら元気いっぱいに叫ぶ。
「おちゅかれさまー!!」
しかし――反応はない。
「……エンディ?」
もう一度呼ぶと、ほんの少しだけ彼のまつげが動いた。
そして次の瞬間、ゆっくりとこちらを振り向き……力ない声で、ぽつりとつぶやいた。
「………寝ます……この後の予定は、すべて……キャンセルで……」
そう言って、クラウディスの頭をポンポンと優しく撫でると、ふらふらと足元おぼつかないまま、とぼとぼ歩き去っていく。
「えぇ!?」
ディーズベルダは思わず目を見開き、その背中を見送りながら声を上げた。
(あのエンデクラウスが……限界で喋るのもしんどそうなんて、初めて見たかも……)
隣にいた教皇が、すました顔で静かに補足する。
「聖属性の魔法で治せなくはないのですが、治癒しすぎると体内の雷属性が回帰を起こしてしまいまして。
せっかく鍛錬したのに、蓄積されたものが“無”になってしまうんですよ」
「そんな感じなの!?」
「もちろん、活性化させて体力だけを回復させるという選択肢もあります」
教皇は涼しい顔で続けた。
「……が。そうすると、夫人の夜が少し長引くやもと思いまして。あえて、放置しております」
「な、なるほど……っ!?」
ディーズベルダは一瞬口を開きかけてから、ぴたりと動きを止めた。
(え、あの、そういう意味で、夜って……え、活性化って、ええええっ!?)
そんな複雑な動揺をごまかすように、彼女はクラウディスをぎゅっと抱きしめ直す。
「ぱぱ、しんぱい?」と、クラウディスが小さく尋ねた。
「うん、ちょっとね。あんなパパ、見たことないもの」
ディーズベルダがそう答えると、クラウディスはぱあっと笑顔を咲かせて、ふふっと笑った。
「どうしたの? クラウ」
「まま、ぱぱ、なかよし!」
その一言に、ディーズベルダの目が少し見開かれる。
(……あれ? さっき私が『むかつく』って言ったの、やっぱり気にしてた……?)
「……気をつけなきゃ……」
小さく呟きながら、ディーズベルダはそっとクラウディスのほっぺをなでた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
──夜、ルーンガルド城の寝室。
月の光が天蓋越しに差し込み、カーテンの隙間からほのかに金の光が揺れていた。
執務や確認ごとを終えて、ディーズベルダはゆっくりと扉を開ける。
静かで落ち着いた空気が、部屋いっぱいに広がっている。
やわらかな灯だけが残された寝室には、すでに誰かの寝息が響いていた。
(寝てる寝てる……)
視線の先――
広めのベッドの上には、黒髪をわずかに乱しながら眠るエンデクラウスの姿。
(エンディが……ちゃんと眠ってるの、初めて見たかも……)
ディーズベルダはゆっくりと歩み寄り、そっとベッドの縁に腰を下ろす。
(いつも私が先に寝ちゃうし。というか、彼って私が眠るまで絶対に起きてるし……
朝も私が起きるとすぐ目を覚ますんだもの。……これは、ガチの熟睡だわ)
まつ毛が長く、きれいなカーブを描いて閉じられた目元。
すっと通った鼻筋に、寝息が静かにくぐる。
どこか儚げで、けれど芯のある顔立ち。
(夫婦生活も、もう1年ちょっとになるけど……無防備に眠ってるエンディって、レアすぎる!)
彼の顔をじぃっと覗き込む。
(まつ毛……長っ。っていうか、横顔の彫りが深すぎて、やっぱり外国人って美しいのよねぇ……)
教皇やベリル兄様のような“中性的な美しさ”とはまた違って、
彼は“男性的な整い”という感じがする。
(でも、黒髪だから私の目にすごく馴染むし……ああもう……やっぱりイケメンってずるいわ)
そんなことを思いながら視線を下に滑らせると――
(……ちょっと待って? 上裸!?)
布団が少しずれていて、広い胸元から腹筋にかけてばっちり見えている。
(うわ、さすがにこれは冷えそう……)
ディーズベルダは一度、掛け布団に手を伸ばしかけたが――ふと手を止めた。
(……いや、待てよ?)
すっと立ち上がり、音を立てないようにして、棚の引き出しを開ける。
取り出したのは、自作のカメラ。
(……この無防備なエンディは、きっとなかなかお目にかかれないわよね)
軽く構え、息をひそめて――
「パシャッ」
月明かりの中で、シャッター音が静かに響いた。
(これ、普通に売れそう……いやいやいや、なにを考えてるのよ私!)
自分で自分にツッコミを入れながら、カメラをすぐにしまい込み、
ようやくおとなしく布団をそっとかけてやる。
「……おやすみ、エンディ」
そう呟きながら、彼の隣にそっともぐりこむ。
隣からは変わらず穏やかな寝息。
その気配に包まれるようにして、ディーズベルダも目を閉じた。




