163.子どもに、鎖ではなく羽を
ルーンガルドの屋敷に帰り着くと、ディーズベルダは荷物も外套もその場に放り出し、
真っ先に子ども部屋へ駆け込んだ。
「クラウ! ヴェル!! ただいまっ──!」
勢いよく扉を開けると、ふわりと木の香りが漂うあの部屋。
ベッドのそばにいたクラウディスが、ぱちくりと目を見開いた。
「ままっ……!」
一歩、二歩とよちよち近づいて──
「ふぇっ……えぇん!!」
珍しく、大きな泣き声を上げた。
「クラウ……!」
すぐに駆け寄り、ぎゅっと抱き上げる。
腕の中で震える小さな身体。
その小さな拳が、ディーズベルダの服をぎゅっと掴んでいた。
「ごめんね……寂しかったね……。ほんと、ごめん……」
頬をすり寄せて、何度も謝る。
クラウディスの「ひっく、ひっく」という泣き声が、胸に痛く染みた。
(……こんなに泣かせちゃうなんて。私、母親失格かも……)
そんな想いがよぎり、ディーズベルダの瞳にもじんわりと熱が滲んだ。
その横では、エンデクラウスがヴェルディアンをそっと抱き上げる。
「ヴェル……良い子にしてたか?」
──が。
「坊ちゃん! ヴェルディアン様は、今ちょうど眠られたばかりでございます!」
スミールが小走りに駆け寄ってきて、眉をひそめて叱った。
「え……あぁ……すまない」
腕の中で微かに眉をひそめるヴェルを見て、彼は少しばつが悪そうに笑った。
「どうしようもなく……我が子を抱きしめたくて、つい……」
「まったく……」
スミールは呆れたようにため息をつくと、「せめて膝の上で」と言い残して部屋を後にした。
落ち着きを取り戻した部屋に、穏やかな沈黙が流れる。
そんな中で──
エンデクラウスがふと、言葉を零した。
「……そういえば。ディズィ。弟のエンドランスが、平民と結婚したがっていまして」
「えぇ!? 思い切ったことを……!」
驚いて目を見張るディーズベルダ。
エンデクラウスは苦笑し、隣でクラウディスの背をとんとんとなだめながら言葉を続けた。
「……全くです。
俺は幼少期、幽閉に近い育ち方をしていたので、
外から“アルディシオン公爵家”という家そのものを観察できました。
でも、エンドランスはその逆でしたから……。
中に居ながら、外の価値観に憧れ、自由に触れて──
結果、恋に落ちて、家の枠組みを越えようとしているんです。
……同じ血でも、育つ環境の違いが
いかに人の価値観に影響するか……改めて思い知らされましたよ」
「で……?」
ディーズベルダは、クラウディスを抱いたまま小さく微笑む。
その“ひとことで返す癖”も、ずいぶん自然になってきた。
「……コホンッ」
エンデクラウスは、少しだけ姿勢を正して言った。
「──なので。この子たちには……
甘すぎず、厳しすぎず。そんな育て方をしようと、改めて思ったんです」
ディーズベルダは黙って頷いた。
瞳の奥には、どこか遠くを見ているような影が浮かぶ。
「……そうだね。子育てって──やっぱり、バランスよね」
ぽつりとこぼれた言葉は、クラウディスの髪をそっと撫でながらのものだった。
──その瞬間、胸の奥で何かがきゅうっと締めつけられる。
思い出す。
前世のことではない、“あちら”よりもずっと近いはずの“この人生”の始まり。
(そういえば──記憶が戻る前の私は……)
ほんのわずか、目を伏せる。
幼い頃、両親の目に映る自分は、いつだって“余計な存在”だった。
食事の時ですら、まともに皿が並ぶことはなく、
兄と同じテーブルに座ることすら許されなかった。
お腹がすいて泣いた夜、
物音ひとつ立てぬよう忍び足で廊下に出た。
「……お前には、必要ないだろう。黙って寝ていろ」
父の低い声が、今も耳に残っている。
そんなとき──
ベインダルお兄様が、ひとりだけでこっそり持ってきてくれたパン。
「少し、あたたかいうちに食え」とぶっきらぼうに渡されたそれを、
胸の中に大切に抱いて、こっそり泣きながら食べた。
(お兄様がいなかったら、私は……)
そしてもうひとつ。
もっと遠くて、もっと重たい記憶。
──前世。
“姉だから”という理由だけで、すべてを背負わされた日々。
叱られるのも、我慢するのも、譲るのも、
いつだって“当たり前”のように押しつけられた。
(……あの頃の私は、“耐えること”しか選べなかった)
その経験が、今の“母”である自分の判断に繋がっていることを、
彼女はどこかで理解していた。
今──腕の中にいるこの子には、
“優しさ”も、“厳しさ”も、ちゃんと必要なだけ、与えてあげたい。
ディーズベルダがそう思った瞬間。
隣で、クラウディスの頭を撫でていたエンデクラウスがふと、口を開いた。
「……お互い、育った環境は劣悪ですね。貴族なのに」
彼の声音は静かで、どこか苦笑の気配を含んでいた。
だがその言葉には、皮肉よりも──
今を大切にする者だけが持つ“本音”が込められていた。
ディーズベルダは微笑みながら、クラウディスの髪に指を滑らせる。
「そうだね……どこの世界でも、きっと同じ。
立場や身分がどうあれ……人は、人を傷つけるものなのよ」
言葉の端に、わずかに寂しげな色がにじんだ。
「……だからこそ──私たちは、子どもを“利用しないように”、気をつけましょう」
その“気をつけよう”という一言に、エンデクラウスのまぶたがわずかに揺れた。
(……覚えてくれていたのか)
かつて、自分がディーズベルダを引き留めるために、
小さなクラウディスを──無意識に“鎖”のように使ってしまったこと。
彼女は忘れていなかった。
だが責めるのではなく、“共に気をつけよう”と言ってくれた。
その優しさが、痛いほどに染みた。
エンデクラウスは、膝の上でぐっすり眠るヴェルディアンを見下ろしながら、
ゆっくりと頷いた。
「……ありがとうございます。気をつけますね」
ほんの一瞬、声がかすれた。
「今は……こんなにも、愛おしいですから……」
彼の指が、小さな子どもの頬を優しくなぞる。
かつて手にしたすべてを守るために、
どれだけ冷酷になろうとも──
今は、この腕の中の温もりを、何よりも大切に思えるのだ。
ディーズベルダは、その姿をじっと見つめていた。
そしてそっと、クラウディスを抱いたまま、彼の肩に頭を預ける。
「……じゃあ、ふたりで。
ちゃんと、気をつけていこうね。……この子たちの未来のために」
「はい。……ずっと、一緒に」




