161.永遠の命をくれるなら、あなたの傷を引き受けたい
教皇は、そっと腕の中のカトレアの亡骸を抱き上げる。
まるで、まだ眠っている人を起こさぬように──
静かに、丁寧に。
そして、玉座の段を登ると、その身体を玉座の中心に座らせた。
まるで“本来あるべき場所”へ還すように。
その顔は安らかで、どこか微笑んでいるようにも見えた。
その手を、最後にそっと撫でてから、教皇は振り返る。
「……ベリ。付き合わせてしまって、申し訳ありませんでした」
低く、そしてどこか掠れた声。
ベリルコートははっと顔を上げ──
すぐに目を伏せ、ぎゅっと自分の腕を抱くように握りしめた。
「……いえ……」
けれど、その答えには、どこか歯切れの悪さがあった。
教皇は、静かにその様子を見つめる。
「……私に──失望しましたか?」
そう問いかけられて、ベリルの喉が小さく震えた。
「……いえ……ただ……」
言いかけた言葉を、ベリルは飲み込もうとした。
けれど、それは胸の奥で暴れて、勝手に口をついて出てしまう。
「……もっと……別の方法があったんじゃないかって……」
教皇の眉が、わずかに動いた。
「グルスタント王は……雷属性で、記憶の操作ができたりします。
教皇様もできるのでしょう?だから、もし……もしもそれを使っていたら……」
ベリルは唇を噛みながら、言葉を絞る。
「……カトレアさんと、もっと……長く一緒にいられたんじゃないかなって……」
自分で言っていながら、胸の奥がぎゅっと締めつけられていた。
(何を言ってるんだ、僕は……)
愛した人の記憶をねじ曲げてまで、幸せな“ふり”なんて…。それはきっと、教皇が最も望まなかったことなのに。
「……それは──もう、カトレアではなくなってしまいますからね」
教皇は、ゆっくりと近づいてくる。
その声は静かで、しかしどこまでも確かだった。
「私は……私と過ごした、あの時間のすべてを……
1分1秒も、忘れずにいてほしかった。
たとえ──こんな姿になったとしても」
ベリルは、何も言えなかった。
ただ、目を逸らさず、じっとその人の言葉を聞いていた。
「……そう、ですよね……」
そう呟いた声は、かすれていた。
次の瞬間──教皇が、そっと彼を抱き寄せた。
ベリルは驚いて身を強張らせたが、
その腕の力があまりにも優しくて、拒むことはできなかった。
「……辛い体験を……させてしまいましたね」
「………………」
ベリルの喉がつまって、返事ができない。
教皇は、その耳元に、静かに囁いた。
「それでも、私は──あなたに知ってほしかったのです。
“教皇”という偶像ではなく……
本当の、“私”を……」
その声は苦しげで、そしてどこか、解き放たれたようでもあった。
「私は……いや、“俺”は──」
「こんなにも、醜くて……
穢れていて……
どうしようもなく、情けない“男”なんです」
教皇の声は、静かに沈むように落ちた。
玉座の間の天井は高く、冷たい空気がまだ満ちているというのに──
その声は、まるで胸の奥をじんわりと温めるように響いていた。
ベリルコートは、その背中に、指をそっとまわす。
ひと呼吸。ふた呼吸。
深く、ゆっくりと溜めを置いたあと──彼は言った。
「……………僕に……永遠の命をください」
その言葉に、教皇の目がかすかに揺れた。
「……え?」
まるで風にあおられた炎のように。
想定外の台詞に、少しだけ心がぐらつく。
けれど、ベリルはまっすぐに言葉を継いだ。
「教皇様。あなたという人を、知るには……
僕の寿命だけでは、到底……理解しきれませんから」
その声音は、どこまでも柔らかく──
けれど、間違いなく“毒”だった。
甘く、絡みつくように、教皇の芯へと忍び込んでくる。
教皇が何かを返す前に、ベリルの腕がぎゅっと、強く彼の背を抱きしめた。
「……良いでしょう」
数秒の沈黙ののち、教皇は息を吐きながら応じる。
「ですが──私に飽きたら……いえ、私が飽きた場合でも、返却していただきますね」
「……はい。それで構いません……」
そう応えながらも、ベリルの声は少しだけぎこちない。
腕に込める力も、ごく微かに緩んで──
その違和感を感じ取った教皇が、ふと問いかける。
「……どうしました?」
ベリルは、顔を教皇の胸元に預けたまま、小さく笑った。
「……もっと……躊躇われると思っていたので……」
「──ふふ……」
教皇がかすかに笑い、言葉を選びながら続けた。
「いずれ私は、“永久の命”を与えたいと……思ってしまうことでしょう。
けれど、それを“カトレアを経験したので我慢しよう”とも、同時に思うはずです」
その声音は、理性と感情の狭間で揺れる静かな水面のようだった。
「でも……あなたが望んでいるというなら──
“望んでいるうちに与えてみたら、どうなるか”。
そういう……じっ……いや……願望、あるいは……興味……とでも言いましょうか」
その含みのある言い回しに、ベリルはくすりと喉の奥で笑った。
その笑いが、やけに甘く、やけに柔らかかった。
「……どうして笑ったのですか?」
不思議そうに問う教皇に、ベリルは顔を上げる。
唇の端には、かすかに影を含んだ笑みが浮かんでいた。
「またひとつ──教皇様の一面を知れたので。
それが、嬉しかっただけです……。」
その言葉に、教皇の胸がかすかに鳴った。
(なんて……可愛いことを言うのだ)
気づけば、もう抵抗などできなかった。
教皇はベリルの身体をもう一度しっかりと抱き寄せ、
その柔らかな髪にそっと顎をのせる。
腕の中の温もりは、
失ったものの痛みを、ほんのわずかに──ほんの、わずかに和らげていた。
「……帰りましょうか」
教皇が囁くと、ベリルはこくりと頷いた。
外に出ると、太陽は高く昇り、空は抜けるような青に染まっていた。
真昼の光が凍りついた帝国の城壁を照らし、
あたり一面に無数の光の粒が反射してきらめいている。
氷の世界は、まるで宝石のように、静かに輝いていた。




