160.殺して、忘れて、それでも君は特別だった
教皇は、ゆっくりと一歩──そしてまた一歩と、
玉座の段を静かに上がっていく。
そこに佇むカトレアは、なお凍結の中にありながらも、
まるで祈るような姿勢で、静かに佇んでいた。
その前に膝をつき、教皇はゆっくりと両手を伸ばした。
その額を、凍ったままのカトレアの額に──そっと重ねる。
冷たい氷の感触が肌に伝わる。
けれど、その奥にまだ確かに“命”があると感じられた。
「……あぁ……カトレア……」
囁きは、まるで誰にも聞こえてほしくない呪文のようだった。
「君との時間は……もう、あの時……あの瞬間で、
本当はすべて──終わっていたんだよな……」
指が微かに震えていた。
彼の背には、いつもの厳粛な威厳も、神聖さもなかった。
「……長らく、苦しめてしまったな……」
声が少しだけ、嗄れている。
苦笑とも言えぬ表情を浮かべながら、目を伏せた。
「……こんな自分勝手な俺を……許してくれ……。
……いや、許さなくていい。一生恨んでくれて構わない……」
その声は、もう“教皇”ではなかった。
ただの男だった。
一人の、罪を抱えた──愛を抱えてしまった、弱い男の声だった。
「……でもな、カトレア。君の望みを……叶えにきたよ」
その場面を、ベリルコートは後方から静かに見つめていた。
胸が苦しかった。
この人にこんな感情があったのかと──
そして、それが自分ではなかったのだと、理解するのが怖かった。
教皇は、ふとカトレアの頬に指を滑らせ、目を閉じる。
「……愛しているよ……カトレア。どれだけの時が経っても……
君だけは……ずっと、特別だった」
目尻に、一滴だけ──涙が浮かんだ。
それを拭うこともせず、教皇はゆっくりと顔を上げ、振り返った。
「俺はね……“属性付与”ができるだけじゃない」
「……え?」
ベリルが息を呑んで声を上げる。
「“属性の回収”も、できるんだ」
その言葉とともに、教皇の指先がかすかに光を帯びる。
カトレアの胸元へと手を伸ばし──
そっと触れた。
すると、ふわりとその身体から二つの光が抜けていく。
ひとつは、神聖な輝きを持つ“聖属性”の白い光球。
もうひとつは、深く沈んだ闇のような“黒い核”。
それらが教皇の掌の中に収まり──静かに、消えた。
やがて、カトレアの身体を包んでいた凍結の結界が、
まるで春に溶ける雪のように、静かに崩れていく。
肩から、腕へ。髪へと氷がほどけ──
「…………っ……!」
まばたきと共に──その瞳が、開かれた。
カトレアの瞳が、教皇を捉える。
教皇はそっと微笑む。
「……お久しぶりですね、カトレア」
その声に、彼女の瞳が一気に見開かれる。
「──教皇っっ!!」
次の瞬間、彼女の身体が飛び退き、杖を振り上げようとした。
「殺してやる……っ!! 殺してやる……この……えっ……?」
振り上げたはずの杖が、反応しない。
魔力が、練れない。
カトレアが自身の手を見下ろし、震えるように呟く。
「……な……なぜだ……? 魔力が……っ……」
教皇はゆっくりと彼女に歩み寄る。
「……あなたのお望み通り、不老は回収しました。
属性も──もう、あなたの中には残っていません。
これでもう、あなたは……“自由”です」
その言葉に、カトレアの表情が一変する。
「……今さら……今さら、何のつもりだ……っ!!」
その叫びは、怒りと悲しみ、絶望の全てを詰め込んだものだった。
「私が……どれだけ……!何百年……この呪いの中で、苦しんだと思ってるの!!!」
玉座の間に響いたカトレアの叫びは、
その空間すら軋ませるほどの憤怒と絶望を孕んでいた。
だが──
「……はい……。どうか……私を……永久に許さないでください……」
教皇の声は静かだった。
逃げず、抗わず、ただ受け入れるように。
その言葉に、カトレアの肩がわずかに震える。
ふと──彼女の視界に、ベリルコートの姿が映り込む。
青いみがかった銀の髪。中性的な顔立ち。
その隣に立つ姿が、まるで寄り添うように見えて──
「……あぁ、そういうこと……!」
その瞬間、彼女の顔に“怒り”ではない、もっと原始的な“嫉妬”の色が走る。
「口では愛してるといっておいて……!!
私がここで、永遠の苦痛に耐えていた間に……」
ぎりっと歯を噛みしめ、カトレアは叫んだ。
「別の“女”を作っていたわけ……!!」
「えっ!? えぇっ……!?」
ベリルコートは驚愕し、思わず一歩引いた。
(ぼ、僕……男なんだけど……!?)
「殺してやるっ!!殺してやる!!!この女もっ!!」
カトレアが怒りに任せて駆け出す──
その瞬間。
「……っ!」
教皇がその手首をがしっと掴んだ。
「……どこかで、君は……
私のすべてを理解してくれる、そういう唯一の存在だと思っていた。
……いや、思い込んでいたんだろうな」
彼の声は、諦めにも似た優しさを含んでいた。
「……長い時間、苦労させたね……」
その言葉が、かえってカトレアをさらに苛立たせた。
「はっ、浮気の末に私を殺すってわけ!?
ふざけないでよっ!!」
彼女の叫びは張り裂けんばかりだった。
だが、教皇は頷く。
「……うん。だからこそ──
一生、俺を許さないでほしい。ずっと、恨んでいてほしい。
それが……せめてもの、償いだ」
その言葉に、カトレアの怒気が頂点に達したかのように口を開く。
「殺してやるっ……! 殺してや──」
だが。
その言葉の途中で、彼女の身体がふらりと揺れ──
がくりと、膝をついた。
「えっ!? カ、カトレアさん……!?」
思わずベリルコートが駆け寄ろうとするが、教皇が手を挙げて制する。
「……大丈夫、ベリ。もう……限界だったんだ」
教皇はそっと膝をつき、
力の抜けたカトレアの身体を、丁寧に抱き上げた。
その表情は穏やかで、けれど──目だけが、深く沈んでいた。
「……不老不死の力を、俺が抜き取ったことで──彼女の魔力はもう、支えきれなくなったんだ。自分の命すら……。長い間、他者の命を背負い続けていた代償だよ」
それは、ゲルセニア帝国の兵たちを不死身に保つため、彼女がたった一人で支えていた魔力の負担だった。
教皇の胸の中で、カトレアは力なく目を細めながら呟く。
「……一生、恨んでやる…っ……。永遠に……呪って……あなたが……眠る夜の……すべてを……地獄に染めてやる……わ……」
カトレアの肩が、小刻みに震える。
言葉を吐くたびに、呼吸は乱れ、胸が上下する。
それでも、口元にはかすかな笑みが浮かんでいた。
それはもう、怒りのものではない。
絞り出すような、乾いた──絶望の笑みだった。
だが次の瞬間──
彼女の瞳が、ふと、かすかに揺れる。
「……あぁ……でも……」
呟いた声はかすれ、虚ろな響きに変わっていく。
「……そんなふうに……“思うこと”すら……
私の……心を……あなたに……捧げてるってことなのよね……」
ゆっくりと、瞳を伏せ、膝に崩れ落ちそうな足元をぐっと堪えながら、
カトレアは喉の奥で笑い、そして──絞るように吐き出した。
「……やめたわ……」
「……お前なんて……もう……思い出さない……っ……
そう……忘れてやる……
……そのほうが……ずっと……残酷でしょ……?」
そして──
「は……はは……ふふ……っ」
震えながら笑い出す。
「……あはっ……あははははっ……!
あっはははははははっ!!!」
笑いながらも、頬には涙。
その言葉に、教皇はわずかに目を伏せる。
だが、次に顔を上げたとき──その表情はとても穏やかだった。
「……いいのか? そんなふうに……俺にとって都合のいい言葉を遺して……」
「……私の気持ちさえも……
……もう、お前に縛られたくない……」
声が掠れ、震えながら、か細くなっていく。
「だから……早く殺してよ……
お前の手で……殺して……
そして──一生……罪に……苛まれてれば……いい……
その女とでも……傷を……なめあ……っ……」
言葉が、ぷつりと途切れた。
その身体が、カクンと教皇の胸の中で沈む。
教皇は、動かなかった。
ただ──カトレアの頬に滑り落ちた
一筋の涙を、指でそっとすくい取った。
「……ありがとう、カトレア」
その囁きは、凍てついた玉座の間に、すうっと吸い込まれていった。




