表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

160/188

160.殺して、忘れて、それでも君は特別だった

教皇は、ゆっくりと一歩──そしてまた一歩と、

玉座の段を静かに上がっていく。


そこに佇むカトレアは、なお凍結の中にありながらも、

まるで祈るような姿勢で、静かに佇んでいた。


その前に膝をつき、教皇はゆっくりと両手を伸ばした。


その額を、凍ったままのカトレアの額に──そっと重ねる。


冷たい氷の感触が肌に伝わる。

けれど、その奥にまだ確かに“命”があると感じられた。


「……あぁ……カトレア……」


囁きは、まるで誰にも聞こえてほしくない呪文のようだった。


「君との時間は……もう、あの時……あの瞬間で、

本当はすべて──終わっていたんだよな……」


指が微かに震えていた。

彼の背には、いつもの厳粛な威厳も、神聖さもなかった。


「……長らく、苦しめてしまったな……」


声が少しだけ、嗄れている。

苦笑とも言えぬ表情を浮かべながら、目を伏せた。


「……こんな自分勝手な俺を……許してくれ……。

……いや、許さなくていい。一生恨んでくれて構わない……」


その声は、もう“教皇”ではなかった。


ただの男だった。


一人の、罪を抱えた──愛を抱えてしまった、弱い男の声だった。


「……でもな、カトレア。君の望みを……叶えにきたよ」


その場面を、ベリルコートは後方から静かに見つめていた。


胸が苦しかった。

この人にこんな感情があったのかと──

そして、それが自分ではなかったのだと、理解するのが怖かった。


教皇は、ふとカトレアの頬に指を滑らせ、目を閉じる。


「……愛しているよ……カトレア。どれだけの時が経っても……

君だけは……ずっと、特別だった」


目尻に、一滴だけ──涙が浮かんだ。


それを拭うこともせず、教皇はゆっくりと顔を上げ、振り返った。


「俺はね……“属性付与”ができるだけじゃない」


「……え?」


ベリルが息を呑んで声を上げる。


「“属性の回収”も、できるんだ」


その言葉とともに、教皇の指先がかすかに光を帯びる。


カトレアの胸元へと手を伸ばし──

そっと触れた。


すると、ふわりとその身体から二つの光が抜けていく。


ひとつは、神聖な輝きを持つ“聖属性”の白い光球。

もうひとつは、深く沈んだ闇のような“黒い核”。


それらが教皇の掌の中に収まり──静かに、消えた。


やがて、カトレアの身体を包んでいた凍結の結界が、

まるで春に溶ける雪のように、静かに崩れていく。


肩から、腕へ。髪へと氷がほどけ──


「…………っ……!」


まばたきと共に──その瞳が、開かれた。


カトレアの瞳が、教皇を捉える。


教皇はそっと微笑む。


「……お久しぶりですね、カトレア」


その声に、彼女の瞳が一気に見開かれる。


「──教皇っっ!!」


次の瞬間、彼女の身体が飛び退き、杖を振り上げようとした。


「殺してやる……っ!! 殺してやる……この……えっ……?」


振り上げたはずの杖が、反応しない。


魔力が、練れない。


カトレアが自身の手を見下ろし、震えるように呟く。


「……な……なぜだ……? 魔力が……っ……」


教皇はゆっくりと彼女に歩み寄る。


「……あなたのお望み通り、不老は回収しました。

属性も──もう、あなたの中には残っていません。

これでもう、あなたは……“自由”です」


その言葉に、カトレアの表情が一変する。


「……今さら……今さら、何のつもりだ……っ!!」


その叫びは、怒りと悲しみ、絶望の全てを詰め込んだものだった。


「私が……どれだけ……!何百年……この呪いの中で、苦しんだと思ってるの!!!」


玉座の間に響いたカトレアの叫びは、

その空間すら軋ませるほどの憤怒と絶望を孕んでいた。


だが──


「……はい……。どうか……私を……永久に許さないでください……」


教皇の声は静かだった。

逃げず、抗わず、ただ受け入れるように。


その言葉に、カトレアの肩がわずかに震える。


ふと──彼女の視界に、ベリルコートの姿が映り込む。


青いみがかった銀の髪。中性的な顔立ち。

その隣に立つ姿が、まるで寄り添うように見えて──


「……あぁ、そういうこと……!」


その瞬間、彼女の顔に“怒り”ではない、もっと原始的な“嫉妬”の色が走る。


「口では愛してるといっておいて……!!

私がここで、永遠の苦痛に耐えていた間に……」


ぎりっと歯を噛みしめ、カトレアは叫んだ。


「別の“女”を作っていたわけ……!!」


「えっ!? えぇっ……!?」

ベリルコートは驚愕し、思わず一歩引いた。


(ぼ、僕……男なんだけど……!?)


「殺してやるっ!!殺してやる!!!この女もっ!!」


カトレアが怒りに任せて駆け出す──

その瞬間。


「……っ!」


教皇がその手首をがしっと掴んだ。


「……どこかで、君は……

私のすべてを理解してくれる、そういう唯一の存在だと思っていた。

……いや、思い込んでいたんだろうな」


彼の声は、諦めにも似た優しさを含んでいた。


「……長い時間、苦労させたね……」


その言葉が、かえってカトレアをさらに苛立たせた。


「はっ、浮気の末に私を殺すってわけ!?

ふざけないでよっ!!」


彼女の叫びは張り裂けんばかりだった。


だが、教皇は頷く。


「……うん。だからこそ──

一生、俺を許さないでほしい。ずっと、恨んでいてほしい。

それが……せめてもの、償いだ」


その言葉に、カトレアの怒気が頂点に達したかのように口を開く。


「殺してやるっ……! 殺してや──」


だが。


その言葉の途中で、彼女の身体がふらりと揺れ──

がくりと、膝をついた。


「えっ!? カ、カトレアさん……!?」


思わずベリルコートが駆け寄ろうとするが、教皇が手を挙げて制する。


「……大丈夫、ベリ。もう……限界だったんだ」


教皇はそっと膝をつき、

力の抜けたカトレアの身体を、丁寧に抱き上げた。


その表情は穏やかで、けれど──目だけが、深く沈んでいた。


「……不老不死の力を、俺が抜き取ったことで──彼女の魔力はもう、支えきれなくなったんだ。自分の命すら……。長い間、他者の命を背負い続けていた代償だよ」


それは、ゲルセニア帝国の兵たちを不死身に保つため、彼女がたった一人で支えていた魔力の負担だった。


教皇の胸の中で、カトレアは力なく目を細めながら呟く。


「……一生、恨んでやる…っ……。永遠に……呪って……あなたが……眠る夜の……すべてを……地獄に染めてやる……わ……」


カトレアの肩が、小刻みに震える。

言葉を吐くたびに、呼吸は乱れ、胸が上下する。


それでも、口元にはかすかな笑みが浮かんでいた。

それはもう、怒りのものではない。

絞り出すような、乾いた──絶望の笑みだった。


だが次の瞬間──

彼女の瞳が、ふと、かすかに揺れる。


「……あぁ……でも……」


呟いた声はかすれ、虚ろな響きに変わっていく。


「……そんなふうに……“思うこと”すら……

私の……心を……あなたに……捧げてるってことなのよね……」


ゆっくりと、瞳を伏せ、膝に崩れ落ちそうな足元をぐっと堪えながら、

カトレアは喉の奥で笑い、そして──絞るように吐き出した。


「……やめたわ……」


「……お前なんて……もう……思い出さない……っ……

そう……忘れてやる……

……そのほうが……ずっと……残酷でしょ……?」


そして──


「は……はは……ふふ……っ」


震えながら笑い出す。


「……あはっ……あははははっ……!

あっはははははははっ!!!」


笑いながらも、頬には涙。


その言葉に、教皇はわずかに目を伏せる。

だが、次に顔を上げたとき──その表情はとても穏やかだった。


「……いいのか? そんなふうに……俺にとって都合のいい言葉を遺して……」


「……私の気持ちさえも……

……もう、お前に縛られたくない……」


声が掠れ、震えながら、か細くなっていく。


「だから……早く殺してよ……

お前の手で……殺して……

そして──一生……罪に……苛まれてれば……いい……

その女とでも……傷を……なめあ……っ……」


言葉が、ぷつりと途切れた。


その身体が、カクンと教皇の胸の中で沈む。


教皇は、動かなかった。


ただ──カトレアの頬に滑り落ちた

一筋の涙を、指でそっとすくい取った。


「……ありがとう、カトレア」


その囁きは、凍てついた玉座の間に、すうっと吸い込まれていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ