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157.愛しき代償、癒えない面影を抱えて

──夕暮れと夜の狭間。

空はまだ完全には沈まず、残照の名残が天蓋に滲んでいた。

紅と藍が溶け合うような不安定な空色。

それはまるで、ふたりの関係を映す鏡のようだった。


「……あ……や……っ……来ないでっ……!」


ベリルコートは、後ずさりながら叫んだ。

声は震え、目元は濡れて、息さえまともに吸えないようだった。


それでも教皇は、何も言わずに一歩、また一歩と、ゆっくりと歩を進める。


決して急がず、音を立てぬように。

まるで逃げ場を与えないような、けれどどこか慈しむような足取りで──


「……っ」


背中が、ひやりとした石壁に触れた。


ベリルの瞳がわずかに見開かれる。

壁に追い詰められる形となったその細い体が、ほんのわずかに強張った。


教皇は、少しだけ目を伏せたまま、口を開いた。


「距離があると思えば、すっと詰められ……

近づいたと思えば、また離される──」


言葉に混じるのは、微かな笑みか、それとも苦味か。

彼自身にも、もう分からなかった。


「……これではまるで、男女の仲のようですね……全く」


その皮肉混じりの囁きに、ベリルの唇が微かに震える。


「ご、ごめんなさい……っ……僕は……っ」


張り詰めた声とともに、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。

白い頬をすべり、顎へと伝うそれは、あまりに透明で、静かだった。


教皇は、そっと手を伸ばした。

迷いもなく、その涙を指先で受け止める。


「……あなたを泣かせたのは──あの記事のせいですか?」


低く、落ち着いた声。

だが、その奥には確かな感情が滲んでいた。


ベリルは答えなかった。

ただ、下唇を噛んだまま、何も言えずに俯くだけだった。


その沈黙に、教皇の思考がじわりと動き始める。


(……なんて、美しい涙だろう)


(どうして……神は、この男を男として創ってしまったのか)


目の前の存在が、あまりにも綺麗すぎた。

触れることすらはばかられるような、壊れそうな儚さを纏っていて──

それでも手放したくないと思わせる、魔性の何かを宿していた。


(同じ男の私ですら……こうして心が揺れてしまう)


華奢な体つき。

華やかすぎる顔立ち。

人の目を避け、屋敷の奥に隠れて育てられたのだろう。

そのせいか──肌は雪のように白く、光を反射するほど澄んでいる。


(……いや、違う。こんな理屈は全部言い訳だ)


教皇は、ゆっくりと、深く息を吐いた。


長く生きすぎてしまったせいで、言い訳ばかりが上手くなった。

ただの「好きかもしれない」という感情を、

あれこれ理屈で塗り潰して、見ないふりをしていただけなのだ。


(……私の時間の中に、少しだけ──この魔物を置いても良いのかもしれない)


(……どうせ、いつかは“男も試してみよう”と思う日が来るのだ)


(それが早いか遅いか──ただ、それだけの話ではないか)


そんな自嘲とも諦めともつかぬ思考の果てに、

教皇はゆっくりと手を伸ばした。


指先が頤に触れる。

ベリルは驚いたように、はっと顔を上げた。


けれど、逃げなかった。


教皇はそのまま、もう一方の手で彼の頬を包み──


「……」


唇を重ねた。


それは、まるで何かを確かめるように、

あるいは、ようやく踏み出す罪のように、

ゆっくりと、丁寧に触れられた口づけだった。


触れ合った唇は驚くほど柔らかく、

微かに震えるその吐息が、かえって艶めいて感じられた。


(……唇まで、柔らかいのか)


ほんの一瞬だけの接触。


だが、確かに何かが変わった。

心の奥の、ずっと閉じられていた場所が、そっと開かれたような──そんな錯覚。


(……私は、遥か遠い昔──)


(人類を、苦労して作り上げた。滅びぬように。消えぬように。

そう願って、彼らの本能に“生殖”という仕組みを植え付けた)


男は女を求めるように。

女は男を愛するように。

本能が、種を残すために愛を利用するように。


その構造によって、人は惹かれ合い、繋がり、命を増やしていった。


そして──


人はいつしか、愛そのものに意味を見出すようになった。


“子を残すため”だけではない。

“生きるため”だけでもない。


ただ、“誰かを想う”という営みそのものが、

苦しみであり、歓びであり、“生”の証になっていった。


(……愛とは、まったくもって、非効率なものだ)


理知の塊であったはずの教皇自身が、

今、その不合理に巻き込まれている。


(それでも──)


彼の瞳がゆっくりと、ベリルコートを見つめる。


その白く透き通る肌が、夕陽に染まる中でほんのりと赤く上気していた。


──いや、違う。

夕陽のせいではない。

彼の頬が、確かに自分の熱で染まっているのが、わかる。


(……この、愛しさは──いつ以来だろう)


心の奥が静かにざわめく。

ひとをこんなふうに見つめる感覚など、とうの昔に忘れたと思っていた。


(……私……いや、“俺”が──魔王だった頃)


遥か遠い、幾千の年月の記憶が、夕暮れの影とともにゆっくりと蘇っていく。


あの頃、幾度となく──勇者や英雄が俺の元へと現れた。


滅ぼすために。

世界を救うために。

民を守るために。


彼らは本気だった。

だが、俺にとっては全て、ただの“繰り返し”だった。


一応──負けてやった。

演出のように“討たれる”ふりをして、

彼らが老い、死に、やがて人々から忘れられた頃──また姿を現す。


その繰り返しだった。


けれど──

あるとき、少し違う“変化”が現れた。


女勇者。


初めて見た“女”という枠の勇者に、俺は興味を抱いた。


(物珍しさだった。そう、ただの興味だ)


だから、ふと結婚してみた。


その次も、また次も──

今となっては前世で読みつくした物語の“シチュエーション”に惹かれ、

ふざけたように──でもどこか本気で“試して”みたのだ。


王女を嫁にしたらどうなるか。

天才魔術師なら。

異世界から来た少女なら。


そして──聖女。


カトレア・ゲルセニア。


聖なる力を持ち、誰よりも純粋で、清らかで──

最初はただ、「聖女を嫁にしたらどうなるか」という、それだけの理由だった。


(そう……ほんとうに、浅はかだった)


だが、彼女だけは──違った。


深く、深く、愛してしまった。


彼女は笑ってくれた。

俺の傍にいて、手を握ってくれた。

耳を傾け、語りかけ、心を撫でてくれた。


永劫を生き、誰にも共感されず、誰の時の流れにも寄り添えなかったこの心を──

たった一人、彼女だけが癒してくれた。


(だから、俺は……彼女に、“永遠”を与えた)


この身と同じ、終わらぬ命を。

愛が続く限り、終わらない時間を。

それが、あのときの俺にできた──最大の愛情表現だった。


……けれど、それが、全てを狂わせてしまったのだ。

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