154.この想い、神の御業にあらず
魔王城・二階──子供部屋。
ここで今、世界の秩序を司る教皇が、全力で──困っていた。
(……これは……重い……)
教皇は、部屋の片隅で哺乳瓶を片手に座り込みながら、
内心で何度目か分からない深いため息をついていた。
隣では、ベリルコート・アイスベルルクが優雅な手つきでクラウディスを抱きながらその頭を撫でいて、
慈愛そのものの微笑みを浮かべている。
「なんだか……幸せな気分になりますね。教皇様……」
ふわりとした声でそう呟くその横顔は、まさに光背が見えそうなほど神々しかった。
(ち、違う。今の“幸せ”は……子育てとしてのやつだよね?恋愛的なやつじゃないよね!?)
思わずベリルの方をちらりと見る。
目が合った。
……やばい。
完全に“好きな人を見つめる目”だった。
(うわぁぁぁぁあ!!やめてぇぇえ!!)
教皇は内心で悲鳴を上げた。
(べ、別にっ、私は夫婦になろうとか、そういう気持ちは……全然……ただの遺伝子が欲しいだけなのですが!?)
だが、現実には何も言えない。
“教皇”とは、常に慈愛と包容力の体現者であるべきなのだから。
ましてや、数百年にもわたって教皇ロールプレイをしてきた身としては、
今さら「すみません、実は中身そこまで悟ってないんです」と言えるわけもなく──
(ああ……そろそろ……役を降りたい……)
小声で「教皇やめたい」と呟きそうになるのを、必死に堪えながら、
教皇はふたたびヴェルディアンの哺乳瓶の角度を微調整した。
……それにしても。
ベリルコートの懐き方は予想外だった。
彼は、自分の過去や傷をすべて話してからというもの、
まるで霧が晴れたかのように、自然体で笑うようになった。
それはいい。非常にいい。教皇的にも、それは大変望ましいことである。
──ただし、べったりと“子育てパートナー”として日々行動を共にするのは、
予定外にもほどがあった。
教皇のイメージでは、せいぜい血を提供してもらって、それで終わるはずだったのだ。
それがなぜ、こうして夫婦のように過ごしているのか。
(……こんな予定では……なかった……)
でも、唯一の救いは──ベリルコートがあまりにも“美しすぎる”ということだった。
(……これが、もし“ゴリゴリの筋肉男子”だったら……私はきっと泣いて神殿に帰ってました……)
その未来を想像して、一瞬ゾッとする。
だが今のところ──顔が良い、それだけで全てがギリギリ許容範囲内だった。
教皇は、ヴェルディアンを曖気させながら、ふと、そんなことを考えてしまった。
(……いや、男の娘が好みというわけではない。断じてない。ないのだが──)
ちらり、と横目でベリルコートを盗み見る。
その横顔は、凍らせた酸素のような銀髪に縁取られ、
どこまでも滑らかな輪郭。
伏せた睫毛は長く、まるで少女のように繊細なラインを描いていた。
(……この顔なら……“あり”かもしれんな)
思考が一瞬だけ禁断の領域に踏み込んだ。
(って違う!私は教皇!教皇だぞ!?何を考えてる!)
自分の頬が熱くなるのを感じ、軽く頭を振って打ち消す。
だが、脳内には“もしこの顔で女性だったら”という想像が高速で展開されてしまっていた。
──そして、抑えきれない好奇心が言葉になった。
「時に……女性になろうと思ったことはございませんか?」
ベリルコートが、クラウディスを撫でる手をぴたりと止める。
「えっ…………それって……」
少しだけ目を見開いたあと、彼は、
まるで“プロポーズをされた乙女”のように、頬を赤く染めて小さく身を縮めた。
「……僕と……その、結婚したいという意味……ですか……?」
「えっっっっ!?!?!?」
教皇はいまにも椅子から転げ落ちそうになった。
全力で首を振りたい衝動を、かろうじて理性が抑える。
(ちっ、ちがうんです!ただの会話の流れです!純粋な興味です!
私はただ聞いただけで……なぜ、そこまで話が飛躍する!?)
あまりの飛び火に、心臓がバクバクと跳ねている。
だが、目の前で伏し目がちに頬を染め、
ひどく真剣な表情でうつむくベリルコートを見て──教皇は何も言えなくなった。
(あああ……これは、言えない。傷つけられない。だって……あの夫人の兄君だし……)
胃に小さな石を詰められたような重さを感じながら、
教皇は、もっとも無難で、それでいて最も誤解を加速させる言葉を選んでしまった。
「……神に祈りを捧げれば、性別の壁を越えることも……可能ですよ」
(※実際にはチート能力で、ホルモンバランス調整薬のようなものを“錬成”できるだけだった)
ただし──代償は重い。
無い物を神に願い作った場合、莫大な魔力を消費し、本人は一日中寝たきり確定コースである。
「そ、それは……!」
ベリルコートが、ぴくんと反応した。
「実は最近……調べてたんです。そういう、変化も可能だって……わかってきて……」
顔を真っ赤にしながら、両手を胸元に当ててうつむく彼の姿は、
まるで恋する乙女そのもので。
「…………」
教皇はもう、なにも言えなかった。
(悪かった。私が悪かったから……そんなに悩まないで……)
心の中で土下座するように思いながら、
教皇は静かに、そっと手元のミルク瓶のラベルに視線を落とした。
(中央神殿に……帰りたい)




