153.兄は、感情を殺してなどいなかった
黒く磨かれた廊下を抜け、エンデクラウスは庭園へと足を踏み出す。
門へ向かっていたその背に──鋭く怒気を帯びた声が届く。
「兄上!!」
足を止めて、ゆっくりと振り返る。
庭園の奥から、肩を揺らして歩いてくるのは、弟・エンドランスだった。
紫の瞳は剥き出しの怒りを宿し、胸の前で拳を握りしめている。
「兄上……! あなたには……情がないのですか!!」
真っ直ぐぶつけられたその問いに、エンデクラウスはほんの少しだけ目を細めた。
そして、ごく冷静に返す。
「………不要なものだと認識している」
短く、何の感情もこもっていないような口調だった。
だが、エンドランスの感情はすでに止まらなかった。
「言ってやる……! 父上を説得してくださらないのなら……!!
義姉さんに、全部言ってやる!! 兄上が演技で愛してるフリをしているだけだって! 本当は何も感じていないって、全部告発してやる!!」
その言葉に、エンデクラウスは一瞬だけ、完全に無言になった。
……弟はあまりにも浅はかだった。
感情という名の爆薬を握って、笑いながら火をつけようとしている弟の姿に、
思わず小さくため息が漏れた。
「……本気で言っているのか、それを」
言葉の温度は変わらない。だが、どこか呆れが滲んでいた。
ゆっくりと近づきながら、彼は穏やかな声音で語りはじめる。
「俺なら──もし相手が平民で、どうしても結婚したいというのなら」
「……!」
「どれだけ嫌悪する相手でも、どれだけ手を汚してでも“使う”。
魔力がないなら、手段を講じて持たせ、貴族の養子筋に編入させる。
そうして政略結婚として“形式”を作り上げる。──それだけのことだ」
エンドランスの目が見開かれた。
「そ……そんな方法が……?」
想像の外からきた現実的すぎる策に、思考が追いついていない様子だった。
エンデクラウスは言葉を止めず、静かに続ける。
「それを“やらない”というのは──その程度の“意志”ということだろう?」
「っ……!」
弟の顔に、明らかな焦りが走った。
「た、耐えられなかったら……どうするんだ?
そんな険しい道のり、相手が耐えきれずに、壊れたら……」
エンデクラウスは、ゆっくりと目を伏せる。
「……壊れたのなら、直せばいいだけだ」
吐き捨てるように言いながら、少しだけ表情が陰る。
「自分が選んだ道なら、“壊れる覚悟”くらい、あって然るべきだろう」
エンドランスは言葉を失い、ただ立ち尽くしていた。
「……父上が“感情を殺して生きてきた”というのは、
表面をなぞっただけの理解だ。
お前にもわかるはずだ、あの人間がどれだけ“私情のかたまり”か」
そう言って、エンデクラウスは目を逸らし──
(……しまったな)
内心で、小さく呟いた。
(つい、助言してしまった……)
本当は、関わらないつもりだった。
深入りも、干渉も、価値のないことだとわかっていた。
──だが、あまりにも未熟で、どうしようもなく不器用な弟を見ていると、
ほんの少しだけ、可哀想になって……つい、助言してしまったのかもしれない。
(……らしくないな)
エンデクラウスは、ふっと短く息を吐いた。
ほんの少しだけ、笑みのようなものが浮かぶ。
そして──門の前まで歩を進めたその時。
「エンディー! 迎えにきたわよー!」
明るく響く声に、彼は目を細めた。
門の前で手を振っていたのは、青空のように笑うディーズベルダだった。
その姿を見た瞬間、エンデクラウスの顔が、すっとやわらいだ。
誰もいないときしか見せない、素の微笑み。
彼は駆け足で彼女のもとへ向かい──そのまま、ためらいもなく彼女を抱き上げ、一回転した。
「きゃっ!? ちょ、ちょっと、まだ家の前でしょ……!?」
ディーズベルダは真っ赤になりながら、慌てて彼の肩にしがみついた。
(……感情を出して、大丈夫なの?)
その心配を口にできずにいると、エンデクラウスは柔らかく囁いた。
「もう家の“外”です」
彼女だけに許された甘い声音だった。
そのまま馬車へ向かおうとした時、エンデクラウスはふと立ち止まり、後ろをちらりと振り返る。
視線の先には、庭園に立ち尽くす弟──エンドランス。
数秒だけ目を合わせて、そして何事もなかったかのように、再び前を向く。
「……帰りましょう。ディズィ。領地へ」
「えぇ!? 王都に一泊って言ってたじゃない!」
驚きの声に、彼は軽く肩をすくめる。
「……どうしようもなく、息子たちに会いたくて」
その一言に、ディーズベルダは唇を結んでぷいと顔をそらす。
「……もぅ……」
それでも、どこか嬉しそうに笑いながら、彼の隣を歩いていった。
ふたりは寄り添いながら馬車へと乗り込む。
──その後ろ姿を、エンドランスはただ、言葉もなく見つめていた。
(……兄は、感情がないわけじゃなかった)
初めて気づかされた。
あの人は、アルディシオン公爵家の本質を見抜き──
その上で、冷たく完璧な“外殻”を纏って生き抜いてきたのだ。
本質を隠すための演技。
家に呑まれず、逃げもせず──
一番“家の中”で、家から遠い生き方をしていた。
(……自分には、足りないものが多すぎる)
まだ胸の中がざわついていた。
だが、何かが変わりはじめているのは確かだった。
気づけば、エンドランスは走っていた。
兄の自室ではない。
兄が最後にいた、別棟の“私室”へ──
誰も立ち入らない、小さな離れへと向かっていた。
重い扉を開けると、すっと空気が変わる。
そこで彼が見たのは、壁を覆う無数の──ディーズベルダの肖像画、そして写真。
静謐な空間に浮かぶ、彼女だけの景色。
紙の上の笑顔、何気ない日常の瞬間。
整然と並べられ、額に収められたそれらは──まるで、崇拝する何かを静かに守る“祭壇”のようだった。
「これは………………」
言葉が、出なかった。
感情を持たない人間が、こんなものを──
いや、違う。
持っているからこそ、
“外に出せないからこそ”、ここに全部閉じ込めていたのだ。
静かに目を伏せるエンドランスの胸に、
兄が抱えてきた“孤独な愛”が、ようやく沁みはじめていた。