152.アルディシオン家、その冷たき完成形
王都・アルディシオン公爵邸。
重厚な門をくぐれば、目に飛び込んでくるのは漆黒の床。
金でも赤でもなく──この屋敷の象徴は、徹底して“黒”。
それは、王から与えられた“忠誠の色”。
光を呑み込み、感情を遮断するこの色は、アルディシオン家そのもののようでもあった。
コツ、コツ、と靴音が響く。
エンデクラウスは、ゆっくりと廊下を進み、執務室の前で立ち止まった。
拳を軽く握り、扉をノックする。
(……さっきまで王城で一緒だったのに、なぜわざわざ呼びつける?)
心の中で静かに苛立ちが膨らむ。
(話があるなら、あの場で済ませればいいだろう……)
“実家”という存在が、エンデクラウスにとっては何よりも居心地が悪かった。
目に映るすべてが冷たい。
空気も、家具も、人の言葉すら──まるで決められた動きをなぞる人形のよう。
感情は不要。表情は抑えろ。
──ここでは、それが“正しい姿”だった。
(ただでさえ、コーリックのせいで頭に血が上っているというのに……)
扉が開く。
執務室の奥には、漆黒のカーテンと分厚い書類。
そして、応接用のソファに──見慣れない気配。
「……エンドランス?」
エンデクラウスは、わずかにまばたきをした。
紫がかった黒の髪に、淡い紫の瞳。
整った顔立ちにしては、兄よりも少し筋肉質な体。
弟、エンドランス・アルディシオン。
数年ぶりに顔を合わせたというのに、エンデクラウスの態度は変わらなかった。
ただ、物を見るかのように、無感情に視線を流すだけ。
まるで「そこに物体がある」と認識しただけ──
感情も、挨拶も、一切必要とされていない。
「エンデクラウス」
机の向こう、主の椅子に座っていたのはもちろん、父・ディバルス。
視線も笑みもない。
淡々とした声だけが、冷えた空気を切り裂いた。
「座れ。話がある」
椅子に腰を下ろすと同時に、ディバルスは、まるで日々の報告を聞くかのような口調で言った。
「……やはりお前。少し──ディーズベルダ嬢に情があるのではないか?」
ディバルスの声は、何の抑揚もない。
ただ“事実を問う”だけのような静けさがあった。
しかしその問いが、この部屋においてどれほど重大な意味を持つか、
エンデクラウスには痛いほど理解していた。
一瞬の沈黙。
その空白を、わざとらしいほどゆっくりと埋めるように──
彼は椅子に深く腰をかけ直し、視線をわずかに伏せた。
「……当然、情などありません」
声音は低く、丁寧で、抑揚に欠けるほど整っている。
「すべては家のため。彼女を娶ったのも、力を得るためであり、領地を治めるのも家の名を広げるため」
あまりに完璧な回答。
父の望む“駒”としての模範的返答だった。
「感情は“支障”にしかなりません。
ですが、私の働きがここまで順調であったのは──
彼女という存在が“支障にすらならなかった”からに過ぎません」
ほんのわずかに視線を上げ、ディバルスの瞳を正面から見据える。
「利用価値がある。それだけです。
愛情など──そもそも私には、最初から理解できないものですから」
ディバルスは目を細め、しばらく沈黙したまま彼を見ていた。
表情ひとつ変えず、すべてを理詰めで“駒として”語る息子。
──そして、違和感のないほど見事な冷淡さ。
「……ふむ。そうか」
その一言とともに、ディバルスは椅子の背にもたれかかった。
わずかに脱力したように見える仕草──けれど、それは決して安堵ではなかった。
“仕上がりを確認した職人”が、作品を眺めるときのような、冷静で誇らしげな眼差しだった。
そして、次に口を開いたのはエンデクラウスへではなく、隣のソファに座っていた次男へ向けてだった。
「見たか、エンドランス」
声に、先ほどまでなかった温度が宿る。
それは“期待”ではない。むしろ“矯正する熱”だ。
「これこそが、アルディシオン公爵家の“完成形”だ。
感情を捨て、“家”のために正しく機能する姿。
お前も兄を見習い、大人しく政略結婚に同意しなさい」
言葉は優しげですらあるのに、その内容はあまりに冷酷だった。
エンデクラウスは、その瞬間、ようやく全てを理解した。
(──ああ。なるほど。そういうことか)
なぜ王城で済ませなかったのか。
なぜわざわざ屋敷に呼び出されたのか。
(俺を、“見せ物”にしたかったのか)
まるで人形劇の舞台装置のように、
“よくできた兄”という型を弟に見せることで、無言の圧力をかけようというわけだ。
──しかし。
「嫌です!!」
空気を切り裂くような強い声が、部屋に響いた。
椅子を立ち上がる勢いで声を上げたのは、エンドランスだった。
拳を握りしめ、全身を震わせながら、必死に言葉を吐き出す。
「俺は……俺は、何がなんでも! ロティと結婚します!!
誰がなんといおうと、あの子だけは、絶対に──っ!」
紫の瞳が、今にも涙をにじませそうなほど強く揺れていた。
静寂。
ほんの数秒、部屋全体が凍りついたかのように沈黙した──そのあと。
「この愚息があああああああああ!!!!!」
怒声が炸裂した。
机を叩き割らんばかりに拳を振り下ろし、ディバルスが立ち上がる。
「貴族の、しかも我が家の名を背負うお前が、よりにもよって“平民”だと!?
あろうことか、“感情”で結婚を決めるなど──愚の極みだ!!」
声が激しく反響し、書斎の窓ガラスがわずかに震えた。
(……頼むから、従ってくれよ)
静かにその様子を見ていたエンデクラウスは、内心で心底げんなりしていた。
(こっちに飛び火がくるだろう……)
目立つのはごめんだ。ましてや、今この場で感情論の泥試合に巻き込まれるなど、勘弁してほしい。
けれど、父の怒りはすでにエンデクラウスへも向けられていた。
「エンデクラウス!!」
叩きつけるように名前を呼ばれる。
「この馬鹿が! あろうことか“平民”を妻に迎えようとしているのだ!!
貴様はどう思う!? 兄として、同じ家の者として、貴様の“答え”を聞かせろ!!」
荒く息を吐きながら、ディバルスの目はエンデクラウスを射抜くように睨みつけていた。
「──父上の仰る通りです」
低く、凛とした声。
「貴族は、家を背負い、血筋を繋ぎ、誇りを保ち続ける義務を負っています。
たとえ感情を捨ててでも──それが、アルディシオンの子としての在り方なのでしょう」
その一言一言は、完璧な“正解”だった。
ディバルスの期待に沿う、非の打ち所のない返答。
けれど、その声はどこか空虚で、まるで台本をなぞっているかのような響きを帯びていた。
「ですが──」
次の瞬間、言葉の調子がわずかに変わる。
「家を支える“器”を選ぶにしても、
中身を拒絶してまで作る茶番は、果たして“誇り”と呼べるのでしょうか?」
ディバルスの眉がわずかに動く。
「エンドランスが選んだ相手が平民であろうと、
それが“価値”で測れぬものなら──それもまた、“支え”の一形では?」
エンデクラウスはわずかに肩をすくめ、静かに結論を落とす。
「……私にはわかりません。
なにせ、私は“感情のない駒”ですので」
その一言に、エンドランスが立ち上がる。
「もうたくさんだ!!」
叫んで部屋を飛び出し、怒声を上げたディバルスがすぐに追う。
エンデクラウスは小さくため息をついた。
(……帰ろう)
【ぼやき】更新を抑えたいのに、話が浮かんで書いてしまう!!ううっ!!




