150.お願い、私のために争わないで!
休戦とは言え、戦が止んだことに安堵の空気が広がる王都。
だが、それを祝うような浮かれたパーティは開かれなかった。
──理由は明白だった。
“完全な終戦”ではなく、あくまで“一時の静けさ”にすぎないということ。
そしてもうひとつ、スフィーラとダックルス辺境伯・コーリックの婚儀が目前に控えていたからだった。
「──解散とする。各々、任に戻れ」
そう言い渡された王のひと言により、謁見の儀は滞りなく終了し、
長き謁見の時間は、ひとまず幕を下ろすこととなった。
長く続く王城の回廊。
ディーズベルダは、深紅の絨毯を踏みしめながら、小さく息をついた。
「……やっと、帰れるわね」
吐き出すように漏らしたその言葉には、安堵と疲労、そしてほんの少しの物足りなさが混じっていた。
だが──その声に返事はなかった。
いや、それよりも先に。
廊下の突き当たりに立っていた一人の男の存在に、彼女の足が自然と止まった。
銀縁の制服。軍靴のように固い立ち姿。
そして、鋭い金の瞳──ダックルス辺境伯、コーリック・アルト・ダックルス。
彼はただ静かに、しかしはっきりと、ディーズベルダの方を見据えていた。
その視線の強さに、ディーズベルダが思わず口を引き結ぶ。
隣にいたエンデクラウスが、ゆっくりと彼女の前へ一歩進み出る。
視線は笑っていたが、瞳は一切、笑っていなかった。
「辺境伯殿──」
冷静な口調の中に、ほんの僅かに“温度の低い響き”が混じる。
「ご記憶かどうか、確認させてください。そちらには、我がルーンガルド家に対して、借りがふたつあるはずです。」
その言葉は、決して脅しではない。
だが──
“あえて借りを忘れた者への最後通告”としては、充分すぎるほど冷たかった。
「その返済は、今でなくとも構いません。ただ……“余計な関心”が妻に向かないことを、こちらは強く望んでいます」
言葉の裏に“明確な牽制”があることなど、コーリックほどの男が見抜かないはずもない。
ふ、と鼻で笑ったような仕草のあと、彼はゆっくりと歩を進めてきた。
そしてエンデクラウスの真正面まで来ると、今度は彼が口を開く。
「もちろん……記憶には残っている、ルーンガルド殿」
その声音は落ち着いていて、まるで老舗の毒酒のように滑らかだった。
「けれど、“借り”というものは、時として“返す先”が変わることもあります」
そして──ほんのわずかに、ディーズベルダへ視線を移す。
「たとえば、“遺されたもの”が、ふと空白になる時などに」
意味を言葉にせず、ただ“空白”という柔らかな毒を落とす。
その一言で、空気がぴり、と張り詰めた。
エンデクラウスの笑みが、ほんのわずかに歪む。
「……」
冷気すら感じさせる沈黙のあと。
「そのような未来は──“来る前に消す”のが我が家の方針です」
まるで会話のようで、まったく通じ合っていない。
だが、だからこそ逆に“通じている”と分かる、貴族同士の言葉の応酬だった。
──そして、当の本人はというと。
(……こ、こういうときって、何か言うべきなのよね……)
後ろで取り残されたディーズベルダが、内心で葛藤していた。
(やっぱり、“お願い、私のために争わないで!”とか言うべき……? いや、でもそんなキャラじゃないし……!)
まったく、男たちというのはどうしてこう、余計なところで火花を散らすのか。
ディーズベルダは内心で小さくため息をつきながらも、何も言えずに黙っていた。
そんな中。
「……それでも、感謝を」
コーリックがふ、と笑った。
表情は穏やか。けれどその金の瞳は、何かを試すように静かに揺れていた。
そして彼は、ゆっくりと一歩近づき、
ディーズベルダの手を、丁寧にとった。
「……戦争を、一時とはいえ“止めて”くれてありがとう。心から、礼を──」
そう言って、彼はその手の甲に、騎士のような流れる動作でそっと唇を寄せた。
一切の無駄も迷いもない、その所作。
それはまさしく“忠誠”と“賞賛”の形をとった──確かな“挑発”だった。
「っ……!」
ディーズベルダが一瞬驚いて肩を強ばらせた、その瞬間。
「──失礼しますよ」
隣にいたエンデクラウスが、ほぼ無言のままその手をさっと取った。
音もなく懐から取り出されたハンカチが、優雅に広げられる。
次の瞬間──
唇を当てられたその手の甲が、柔らかく、だが確実に拭われていた。
「……………」
ひとつも言葉を発していないのに、空気にはピリッとした静電気のような緊張が走る。
その所作は一見穏やかで、礼儀に沿ったものにすら見える。
けれど、ディーズベルダは知っていた。
(絶対、怒ってる……!)
手を丁寧に拭きながら、エンデクラウスは静かに告げた。
「帰りましょう、ディズィ」
声はやわらかくて、けれど、拒否権を一切与えない決定口調。
彼の手はそのままディーズベルダの手を優しく包み、その場からそっと導き出すように歩き出す。
(……いくらなんでも……失礼な気がするけど…まぁ、仕方ないわね)
そう思いながら、彼女はそっとエンデクラウスの背中に寄り添うように歩を合わせる。
王城を後にし、馬車へと向かうふたり。
その後ろで──
コーリックは唇の端をわずかに釣り上げていた。
その表情は、負けたとも、諦めたとも見えない。
むしろ──獲物の“逃げる方向”を確認したような、そんな目だった。