149.忠義と策謀のはざまで
──ルーンガルド夫妻、王への謁見
王都滞在から三日目の朝。
ついに、王からの召喚が下った。
重厚な金細工が施された正面扉の前に立ち、ディーズベルダとエンデクラウスは同時に息を吸い込んだ。
ゆっくりと扉が開かれると、そこには金と深紅を基調とした荘厳な空間が広がっていた。
天井は高く、窓から差し込む陽光が、大理石の床に長く影を落としている。
真紅の絨毯は、まっすぐに玉座まで続いていた。
その玉座に鎮座するのは──グルスタント王国の王、フィーサルド。
鋭く観察するような視線。
一言で空気を変えてしまうような威厳をたたえたその姿に、場にいたすべての者が自然と背筋を伸ばした。
玉座の左右には、王国の要職にある貴族たちがずらりと控えていた。
中でも目立つのは、ダックルス辺境伯のコーリック。そして──エンデクラウスの父であり、側近として仕えるディバルスの姿もあった。
重たい扉が完全に閉じたそのとき。
エンデクラウスが前へ出て、凛とした声を放つ。
「ルーンガルド領主、エンデクラウス・ルーンガルド──並びに、妻のディーズベルダ・ルーンガルド。只今、謁見に参上仕りました」
その声は堂々としたもので、玉座の間に静かに響き渡った。
けれどその表情は、あえて冷酷な仮面を貼りつけたように硬く、目元にはわずかな険しさすら見える。
(……父が見ている。余計な隙は見せられないな)
ディーズベルダは隣に立つ彼の横顔をそっと見つめた。
本来なら彼がよく見せる柔らかな笑みは、今は一切見られない。
「こちらへ参れ」
王の低く静かな声に従い、ふたりは絨毯の上を歩み、玉座のすぐ手前で膝をついた。
玉座の間は水を打ったような沈黙に包まれる。
──そして。
「よい。そなたらには、感謝してもしきれん」
フィーサルド王の重みある言葉に、場の空気が少しだけ揺れた。
(……思ったよりも穏やか……?)
ディーズベルダが目を丸くしかけた、そのとき。
隣のエンデクラウスが、胸に手を置いて深く頭を下げた。
「……もったいのうございます、陛下。そのお言葉、恐れ多く頂戴いたします」
彼の声は低く落ち着いていて、完璧な礼儀作法だった。
だが、ディーズベルダにはわかった。その言葉の中に、さりげなく彼の“盾としての立場”が込められていることを。
「ただ……あの“凍結”がいつ溶けるか、予測がつきません。今後の動きには、警戒が必要です」
そう静かに告げるエンデクラウスに、フィーサルド王はわずかに眉を寄せ、小さくうなずいた。
そして、ゆっくりと視線を横へ流す。
「──アルディシオン家さえ近づかなければ、溶けることもあるまい。……お前が公爵位を手放してまで、彼女を伴侶として迎えた理由──今ならば、よくわかるわい」
その一言が落ちた瞬間、玉座の間の空気がぴんと張り詰める。
「……!」
エンデクラウスの眉がかすかに動いた。
しかし顔に感情は浮かばない。冷たく沈黙を守るその内側で、ただ鋭い思考だけが静かに回っていた。
氷のような面差しのまま、ゆるやかに目を伏せる。
玉座にもたれた王は、わずかに身を傾けると、軽やかな仕草でディーズベルダに視線を移した。
「夫人、そなたのことは──学園時代より、聞き及んでおるぞ」
その声音に、ディーズベルダは自然と背筋を伸ばす。
王は満足そうに続けた。
「隣におるエンデクラウスを差し置き、首席で卒業したそうだな……なるほどのう」
言葉を締めくくるように、王はさらりと目線を逸らし、玉座の左側へ目を向ける。
その名の主──
玉座の左手に控えていたディバルス・アルディシオンは、漆黒の紋章を胸に据え、無言で頭を下げていた。その姿はあくまで忠義深く、無言の誠を尽くしているかのように見える。
だが、その瞼の奥には、濁りきった感情が蠢いている。
(……ふん。ようやく“使える”ようになったか)
それは、道具が思い通りに動いたことに対する、機械的な満足に過ぎない。
父としての情愛など、最初から存在していない。
(エンデクラウス、お前は私の作った“完璧な傀儡”だ。
そして、哀れな娘よ──ディーズベルダ。
あの男に愛されていると信じて疑わない、その思い込みこそ、私が与えた檻だ)
(……従順であればあるほど、壊すのが楽しみだな)
そんな冷酷な思考が、彼の心の奥で静かに息づいていた。
周囲にいた他の貴族たちは、そのやりとりを黙って見つめていたが──
誰ひとりとして、素直にその評価を受け入れている者はいなかった。
「……また、ルーンガルドか」
「なぜ、あの若造たちが……」
そんな不満の声が、顔には出さずとも、じわじわと場に広がっていた。
けれど、その中でただひとり。
まるで別の意味でディーズベルダを見つめる者がいた。
──ダックルス辺境伯・コーリック。
その瞳は、他の誰よりも鋭く、そして飢えていた。
(これが、“氷の災厄”を引き起こした張本人か……)
彼の視線には、驚きも嫉妬もない。あるのは、明確な──狩人のような興味。
彼の口元がわずかに吊り上がった。
その視線を、ディーズベルダは確かに感じた。
背中を撫でるような嫌な予感。皮膚の下で、ぞくりと何かが走った。
一方、王──フィーサルドは、自らに忠誠を誓うディバルスの“息子”が娶った女であれば、自分の意のままに動くと踏んでいた。
言葉をかければ素直に従い、命じれば笑顔で従順に膝を折る──そんな“扱いやすい駒”だと、心のどこかで決めつけていたのだ。
だからこそ、王は安心して笑みを浮かべる。
その口元は、疑いのない信頼の色を含んでいた。
「──褒美をとらせよう」
その言葉に、場がふたたび静まり返る。
王は椅子の肘掛けに指を這わせながら、優雅に言葉を続けた。
「爵位か、封地か、それとも──金貨千枚でも欲しいか?ルーンガルドの名は、もはや帝国さえ震わせる。それに見合う報いを授けねばなるまい」
ディーズベルダとエンデクラウスは、ほんの一瞬、顔を見合わせた。
無言のやり取りの中で、互いの目が同じ答えを伝え合う。
「陛下のご厚意、まことに光栄に存じます」
エンデクラウスが静かに口を開いた。
「ですが──我らにとって最も価値あるものは、すでに手にしております。
領民と、子どもたちと、そしてこの平穏こそ、何よりの褒美にございます」
ディーズベルダも、そっと膝をついたまま頭を下げる。
「願わくば、どうかこのまま……我らが築いた小さな日常を、これ以上揺るがせぬよう──お取り計らい願えれば、これに勝る褒美はございません」
その声は澄んでいて、気高かった。
玉座の間には、数秒の沈黙が落ちる。
それは、王の“見誤り”を誘うための、巧妙な一手でもあった。
「……ふむ」
低く喉を鳴らすようにひとつ唸り、指先で肘掛けをとん、とんと軽く叩いたあと──
「──よかろう」
そう呟いた王の声音は、どこか満足げだった。
深い洞察を含みながらも、まるで「従順な者に褒美を与える主人」のような響きで。
「そなたらの慎ましき願い、聞き届けた。
子を守る心、その覚悟──まこと、父母たるにふさわしい」
王は微笑みながら、ディーズベルダとエンデクラウスを交互に見やった。
「……とはいえ、そなたらの働き、国を揺るがすに足るもの。
いずれしかるべき座を用意せねばなるまいの」
まるで何でも掌の上で転がしているような、余裕ある言いぶりだった。
だがその言葉の奥には、今後も“役立ってもらうぞ”という釘が、見え隠れしていた。
──それでも、ディーズベルダとエンデクラウスは、丁寧に頭を下げる。
「もったいなきお言葉……ありがたく、頂戴いたします」




