148.罰として、ダンスの稽古です
──その頃、グルスタント王国では、王都を揺るがす大騒動が巻き起こっていた。
長きにわたり続いてきたゲルセニア帝国との戦争が、
“たった一人の貴族夫人”によって、一夜にして終結へと向かったというのだ。
その名は──ディーズベルダ・ルーンガルド。
《氷の咆哮》
《凍てつく女神》
新聞の見出しには、彼女を称える異名が並ぶと同時に、その暴走とも言える魔力の放出が、どれだけの規模であったかを詳細に報じていた。
記事にはこうも書かれていた。
『ゲルセニア帝国の兵と街並みは、氷の嵐によって凍りついた。
しかし、ディーズベルダの夫・エンデクラウス・ルーンガルドの加護によって、味方である王国軍の被害は奇跡的にゼロだった』
『ディーズベルダが剣ならば、エンデクラウスは鞘。
暴走する刃を受け止め、制する者である。』
──馬車の中。
ディーズベルダは、その新聞をぎゅっと両手で握りしめながら、肩を落としていた。
「…………はぁ……」
悔しさ、恥ずかしさ、そして……深い後悔が胸を圧迫する。
(あんな……あんな大ごとにするつもりじゃなかったのに……)
思わず新聞をくしゃりと握りしめたそのとき──
「しかし、これは……」
隣で目を細めていたエンデクラウスが、静かに口を開いた。
「すぐに王からの呼び出しが来るやもしれませんね。
領へは戻らず、王都に数日滞在しましょうか」
その言葉に、ディーズベルダが顔を上げる。
「そんな……! でも、子供たちが……!」
声は切羽詰まっていた。
馬車の揺れが心臓の鼓動と重なるほどに、焦りと不安がにじみ出ていた。
「大丈夫ですよ。ジャケルは先に子どもたちのもとへ戻しましたし、スミールとジャスミンも一緒です。
……罰だと思って、しばらく王都で反省しましょうね?」
言葉とは裏腹に、エンデクラウスの声音はどこか楽しげだった。
「うぅ……まだ、領地でやることが山ほどあるのに……」
ディーズベルダはぷいとそっぽを向きながら、悔しそうに唇を噛んだ。
けれど、何も言い返せない。完全に自分がやらかしたのだから。
そのとき、エンデクラウスがふわりと立ち上がり、彼女の隣に腰を下ろす。
「ディズィ?」
そっと名前を呼ぶ声は、低くて甘やかだった。
彼は彼女の髪に触れ、さらりとした銀髪にキスを落とす。
その仕草に、ディーズベルダの耳が赤く染まる。
「これを機に──深く、反省しましょうね?」
「……はい……」
恥ずかしさと心地よさが混ざり合い、思わず視線を逸らしたまま、ディーズベルダは小さく頷いた。
──けれど。
「……王都では、俺とふたりきりですね。
さて──何をするか……わかっていますか?」
その声が、彼女の耳元でささやかれた。
「な、何って……」
突然の“それらしい空気”に、ディーズベルダの顔が一気に真っ赤に染まる。
(えっ……まさか……そ、そういうことを!? 王都で!?)
エンデクラウスは、にやりと意地悪く笑うと、
ディーズベルダの顎を人差し指でそっと持ち上げる。
「──俺と……みっちり、ダンスの稽古をしましょうね?」
「へ……? ダンス?」
ぽかんとした顔のまま言い返すディーズベルダ。
「はい。他に、何をすると思っていたんですか?」
その笑顔は、実に悪質なほどの余裕に満ちていた。
「……うぅ……エンディのばか……」
頬を真っ赤に染めながら、ディーズベルダはそっと顔をうずめた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
──王都・王城。
緻密な金細工が施された長椅子の上に、王は無言で腰を下ろしていた。
玉座の間には、報告書を携えた家臣たちが静かに整列している。
部屋の空気は重く──
だが、それは恐れや緊迫ではなく、まるで“嵐が去った後”のような静けさだった。
一通の速報が、今しがた王のもとに届けられた。
ゲルセニア帝国との長きにわたる戦争が、
一夜にして“終結の兆し”を見せたのだと。
──原因は、ディーズベルダ・ルーンガルド。
氷の暴走。凍てついた大地。誰もが想像すらしなかった終わり方だった。
「……ルーンガルド夫妻は、今どこに?」
王の声は低く、静かだった。
「はい、現在王都に滞在中との報告がございます。
戦後処理のため、領地には戻らず、そのまま迎えの指示をお待ちいただいているとのことです」
報告を受けた王は、一瞬だけ目を伏せ、ふぅ……と長く息を吐いた。
「……まったく。とんでもない力を手に入れたものだな、あの一族は……」
王がぼそりと呟いたその言葉に、傍らに控えていたひとりの男がそっと顔を上げた。
ダックルス辺境伯、コーリック。
その名は、長きにわたる戦争の最前線で恐れられた“壁”の象徴。
王の命を受け、幾度となく血の海を越え、今なお辺境の地を守り続けてきた男。
──その彼が、今、手にした報告書を静かに震わせていた。
「……戦争が……」
掠れるような声が喉から漏れる。
それは誰に聞かせるでもない、自分自身のための確認だった。
「……終わった、のか……?」
かつての戦場が、頭をよぎる。
矢の雨に倒れていく若き兵士たち。
燃える森、血に染まる大地。
そして、地を踏みしめるたびに感じていた、終わりのない絶望の重さ。
(あれが……本当に……)
報告には、たしかに記されていた。
ディーズベルダ・ルーンガルドによる、圧倒的な氷の咆哮。
その力が、敵国ゲルセニアの進軍を凍てつかせ、全軍を停止させたこと。
戦場の兵たちが、武器を手から落とし──
敵も味方も、ただ凍りつく景色を見上げていたこと。
希望は、まだ確信には遠い。
けれど──
「……ふふ……」
静かに、笑みがこぼれる。
声にならぬ感情が、胸の奥で波紋のように広がっていく。
「やってくれたな……ルーンガルド夫妻……」
長年、肩にのしかかっていた戦の重さが、ふと軽くなった気がした。
まるで、ずっと背負っていた鎧を──ようやく脱げたかのように。
報告書を胸に当て、ゆっくりと目を閉じ、天井を仰ぐ。
その瞳に浮かぶのは、安堵か、羨望か──あるいは、ほのかな悔しさか。
「ははっ……私が手に入れるべきは……夫人だったか……」
ぽつりとこぼれたその言葉は、
誰に届くでもなく、静かに玉座の間の空気に溶けていった。