147.それでも、兄妹であるということ
薄暗い天井が視界に入った。
──ここは、どこだ。
ベインダル・アイスベルルクは、わずかに眉をひそめながら目を開けた。
重たいまぶた。
けれど、体を包む空気はあたたかく、どこか静けさに満ちていた。
「……はぁ。静かだな……」
思わず、独りごちる。
ここは、貴族専用の休憩所──戦場のすぐ裏手にあるはずなのに、
聞こえてくるのは風のさざめきだけ。
いつもなら耳に残る魔法の轟音も、金属のぶつかる音さえもない。
その不自然な“静寂”が、逆に異様だった。
「目を覚ましましたか、ベイル」
柔らかい声が耳元で響いた。
ベインダルはゆっくりと上半身を起こし、声の方を見やる。
そこにいたのは、椅子に腰を掛け、片肘をついてリラックスした様子のエンデクラウスだった。
「……何? クラウス……何故貴様がここに……」
額を押さえながら、ゆるりと眉をひそめる。
体が重い。魔力の流れも鈍い。どうやら、本格的に意識を失っていたらしい。
「まぁ、あー……実はですね」
エンデクラウスは少しだけ困ったように笑いながら、静かに語り出した。
──内容はこうだ。
戦場で負傷した聖騎士たちの報せを受けたディーズベルダが、突発的に城を飛び出し、
このダックルス辺境地まで、ひとり馬を駆けだしたので、追いかけて、なんとか馬車でこの地へやってきた。
そして、倒れていたベインダルの姿を目にし、我を忘れた。
怒りと焦りのままに、氷の魔力を暴走寸前まで高め、
結果としてゲルセニア帝国の前線全域を、溶けそうにない大吹雪で覆い尽くしたという。
「……ゲルセニアの地は、雪の下で凍りついてます。
住民は……無事ではないでしょうね」
「…………」
ベインダルは、沈黙のまま瞳を伏せた。
戦況は一変した。
彼女が起こした吹雪によって、敵軍の進軍は事実上不可能となり、
戦争は一時休止状態へと追い込まれた。
防壁も満足いく強度で修復されはじめ、当面の戦線は凍結。
しばらくは、間違いなく“平和”が続くだろう。
──だが。
それは本当に、良いことなのか。
「…………はぁ。やらかしたか、ディーズベルダ」
ベインダルは静かにため息を吐いた。
その目には、苛立ちよりも、深い疲れと――少しの、兄としての情けなさがあった。
「怒ってやらないでください。彼女なりに必死だったんです」
エンデクラウスがそっと言葉を添える。
その声も、どこか柔らかく、彼なりの“かばい方”だった。
ベインダルはほんのわずか、肩を揺らして息を吐くと、ゆっくりとベッドの縁に肘を置いた。
「………私を思っての行動だろう」
ぽつりと、呟く。
「だが──突発的に動き、勝手に戦場に出向き、挙句、貴様にまで迷惑をかけるあたり……
兄としては、叱っておかねばな。……たとえ、それが愛情から出たものであっても、だ」
口調は貴族らしい丁寧さを保っていたが、
その言葉の端には、兄としての“責任”と“自戒”が滲んでいた。
──そして。
「ほらっ! 話し声が聞こえますわ! 起きていらしてよ、絶対!」
勢いよく扉を開けて入ってきたのは、リボンを揺らしたエンリセアだった。
彼女は部屋の外で躊躇っていたディーズベルダの腕を、ぐいぐいと引っ張っていた。
「や、やだ……! 帰るってば!! 会いたくない! 今は絶対無理!」
いつになく弱気な声で、ディーズベルダは踏ん張る。
表情は引きつり、瞳は泳ぎ、視線は部屋の中を決して見ようとしない。
その肩はわずかに震えていて、まるで怒られるとわかっている子供のようだった。
「なにを言ってるんですの! このまま逃げたら余計気まずくなりますわよ!」
エンリセアは、ずるずるとディーズベルダを引きずるようにして、ついにベインダルのいるベッドの前まで連れてきた。
部屋の中には、エンデクラウスとベインダル、そして今到着した妹。
ディーズベルダはひときわ小さく見えた。
「……ディーズベルダ」
低く、静かな声が室内に響いた。
ベインダルが、ベッドの縁に片肘をついたまま、妹に目を向けていた。
「……来なさい」
その一言に、ディーズベルダは肩をピクリと震わせた。
まるで氷の剣が背筋をなぞったような感覚。
彼の声は、怒っているわけではない。
けれど、それが逆に──怖かった。
数歩だけ、ぎこちなく前へ進む。
ベインダルの視線が、ゆっくりと彼女を見上げてくる。
そして。
「…………この……大馬鹿者が!!!」
鋭く響いたその叱責に、ディーズベルダの体が跳ねた。
「ひっ……!」
思わず、口を押えて後ずさりそうになる。けれど、逃げ場はなかった。
「何を考えてひとりで突っ走った!? 無断で戦場に現れるとは何事だ!
しかも、魔力の暴走で戦域全体を凍らせるなど──どれほど多くの人間を巻き込んだと思っている!」
ベインダルの声音は厳しいものだった。
けれど、目元には明らかに“怒り”だけではないものがあった。
心配と──恐れと──それ以上に、彼女が自らを危険にさらしたことへの苛立ち。
「兄として言っておく。貴様のしたことは軽率極まりない。
エンデクラウス殿にも迷惑をかけたはずだ。誇り高き貴族の名において──恥を知れ」
叱責の言葉は、容赦がなかった。
けれど、その奥には確かに、妹を案じる想いが滲んでいた。
それが痛いほど分かってしまうからこそ──
ディーズベルダは、ただ俯いたまま、唇を噛みしめることしかできなかった。
肩が小刻みに震えているのは、怒られたせいではない。
愛されていると、わかってしまったからだった。
「──もう、そのへんで」
柔らかな声が、重く張りつめた空気をそっと割るように響いた。
エンデクラウスが、ゆるりと立ち上がる。
そして、ディーズベルダの背後からその肩を優しく包み込み、
まるで世界で一番大切なものを抱くように、そっと抱きしめた。
「ここへ、最後まで運んだのは俺ですし……ね?」
声は穏やかで、けれど、その瞳にはしっかりとした強い意志があった。
ベインダルは彼をじっと見つめ、少しだけ顎を引いた。
「……お前は、甘やかしすぎだ」
低く吐き捨てるような声。だが、それは怒りではなく、どこか呆れにも似た響きだった。
「はい、そのお気持ちは、よく理解しております。
……だからこそ──ご理解いただけますよね? ベイル」
エンデクラウスが言いながら、ちらりと視線をエンリセアに向ける。
その意味を察したベインダルは──
「……っ……チッ」
舌打ちをひとつ。
その表情には、認めたくなさそうな兄の敗北感と、どこか苦笑いのような諦めが滲んでいた。
「………はぁ。さっさとここを離れろ。
時期に、記者や王都の使者が何かと問い詰めに来るかもしれん。騒がしくなる前に、立ち去っておけ」
「……お言葉に甘えて、そうさせていただきます」
エンデクラウスは深く一礼し、ディーズベルダの肩を支えながら、扉へと歩を進める。
その途中で──
「ディーズベルダ」
名を呼ばれて、彼女は立ち止まった。
振り返ると、ベインダルが真っ直ぐに彼女を見ていた。
「もう……無茶はするなよ。
これから先、私は──お前を最優先に守ることができなくなるのだからな」
「……はい、お兄様……」
ディーズベルダは、そっと返事をした。
けれど──そのまま歩き出すことはできなかった。
ぐるりと回り、ベインダルに向かって小走りで駆け戻ると──
「お兄様っ!!」
彼の胸に、勢いよく飛び込んだ。
「おい……!」
驚きながらも、その身体を受け止めたベインダルは、
ほんの一瞬だけ目を見開いたあと、静かに頭を撫でた。
「……まったく。いつまで経っても……困ったやつだ」
その言葉は、どこまでも優しく、どこか誇らしげでもあった。
──だが。
そのやり取りを背後から見ていたエンデクラウスは、にこにこと笑いながら、
しかし瞳の奥では燃えるような炎を宿していた。
(……兄だからと、許すと思うなよ…。)
ベインダルがふと視線を感じて横を向くと──そこには“やや殺意を帯びた笑顔”の義弟。
「……っ」
ほんのり顔色が青ざめたのは、きっと気のせいではなかった。