146.白き絶叫の災厄
ダックルス辺境地──戦場の最前線。
氷と土が入り混じった地面には、無数の魔法の痕が刻まれ、吹きすさぶ風の音のなかで、氷の魔力が鋭くきらめいていた。
そこに立っていたのは、ベインダル・アイスベルルク。
背筋はいつも通りまっすぐで、銀の長髪も乱れることなく……と言いたいところだったが──
その見事なオールバックは、少しだけほつれていた。
額には汗が滲み、肩が荒く上下している。
「……はぁ……っ……まだ……」
彼は氷を操り、広範囲の消火活動を必死に行っていた。
その魔力の繊細さと速さは、まさに職人技の域にあったが……明らかに、限界は近かった。
「一度……お休みになりませんこと?」
すぐ傍から、涼やかな声がかけられる。
紅いリボンを揺らすエンリセアが、唇をわずかに尖らせながら、彼の横顔をのぞき込んでいた。
「……この……馬鹿……が……」
ベインダルは、苦しげにそれだけ呟くと──
次の瞬間、前のめりに崩れるように倒れた。
「ちょっ!? ベインダル様!?」
エンリセアの顔色が一気に変わる。慌てて駆け寄り、倒れた彼の肩を支えながら、その顔色を覗き込む。
「脈が……早い。魔力切れ……っ」
と、その時だった。
遠くから、風を切るような足音が響く。
「お兄様っ!!」
戦地に似つかわしくない、けれど凛とした女性の声──
銀の髪をなびかせ、ディーズベルダが駆け込んできた。
その目には驚きと怒りが宿り、駆け寄る途中で倒れているベインダルを見つけるやいなや、唇がきゅっと引き結ばれる。
「お義姉……様?」
エンリセアは驚きに目を見張った。
(ま、まずいですわ……)
──次の瞬間。
「許せない……ッ」
ディーズベルダの声音が低く、怒気を含んでいた。
そのまま一言だけ残し、何の迷いもなく最前線へと足を踏み出す。
「ちょっ!? ちょっと待ってくださいましっ!! お義姉様!! 違いますの!! 敵にやられたわけでは……!」
慌てて手を伸ばすも、ディーズベルダは振り返らない。
足取りはまっすぐで、怒りと決意が背中から滲み出ていた。
「……っ、どうしましょう……」
エンリセアが小さくつぶやいた、そのとき。
「リセ、ベイルはどうした?」
鋭くも落ち着いた声が、戦場に響いた。
駆け込んできたのは、エンデクラウス。
すぐに状況を察した彼は、倒れている兄を一瞥しながら、息を切らすエンリセアに問いかける。
「それが……わたくしが、少し際限なくぶっ放してしまいまして……
ベインダル様がずっと消火活動をしてくださっていて……その、魔力が切れてしまったようでして……」
「……なるほど」
エンデクラウスの瞳が鋭く細まる。
「ですが、お義姉様がそれを“敵のせい”と勘違いしてしまったようで……ただ今、最前線へ……」
「そうか。わかった」
彼は短く頷くと、素早くポーチの中から小さな瓶を取り出した。
「リセ、魔力が漏れている。休憩所には入らず、今すぐ下がって休め」
「はい……。わかりましたわ」
エンリセアは、しおれたように肩を落としながらも素直に頷く。
──だが。
「いや、これを使え」
そう言って、エンデクラウスが彼女に投げ渡したのは──
「え……? これは……ボディークリーム……?」
紅いラベルのついた瓶を手に取るエンリセアが困惑する。
「魔力が抑えられる。しばらく塗って休めば、制御が戻る」
「そ、そうなんですの……? こんなものまであるのですね……」
呆然としながらも、それを受け取り、足早にその場を後にした。
──そして。
「ディズィ……待ってください!」
エンデクラウスは、鋭く風を切るように振り返ると、懐から黒革の手袋を取り出した。
それは燃えない特殊素材でできた、彼専用の戦闘用具。手早くそれをはめながら、
一気に地を蹴って、ディーズベルダの後を追って走り出した。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「……許せない……」
ディーズベルダの瞳に、怒りと悲しみが渦を巻く。
彼女は迷いなく、両手を広げ、宙に魔力を放つ。
すると──
地面から“氷”がせり上がった。
一瞬で形を変えながら、滑らかな階段を作り出していく。
それはまるで、空へと続く神殿の階段のように、美しく、そして冷たい。
氷の階段を駆け上がった彼女は、防壁の上に立ち、風を切るように両腕を広げる。
天を仰ぎ、目を閉じたその瞬間──
空気が、変わった。
ひゅう……という低い風の音。
空が、光を閉ざしていく。
「……全てを終わらせる──」
ディーズベルダの囁きは、風にかき消されるほどの小さな声だった。
けれどその瞬間、世界が息を呑んだように、音が消えた。
彼女の周囲の空気が、音もなく揺れ始める。
見えない何かが、ゆっくりと圧縮されていくような違和感が、じわじわと広がっていく。
氷の粒子が、空気の中で静かに舞いはじめた。
そして──
「ッ……寒……い……?」
最前線に立っていた兵士のひとりが、突然、震える声でつぶやいた。
その声に気づく間もなく──
ゴォォォォォォッ……!!
大気が砕けた。
空が叫び、地が軋み、轟音と共にそれは始まった。
轟く吹雪。
それは“嵐”などという生易しい言葉では表現できなかった。
大陸の輪郭をなぞるように、白がすべてを覆い尽くしていく。
ゲルセニア帝国の地が、ほんの数秒で“雪と氷の墓標”と化していった。
その場にいた全員が、それを見た。
天から降る雪の一片ひとひらが、すべて“刃”のように鋭く、魔力を宿した凶器であることを。
「ば、化け物だ……っ」
「な、なにを……!? なんで、こっちまでっ……!!」
防壁付近にいたダックルス家の兵たちも、何が起きているのか理解できぬまま、次々と後方へ走り出す。
誰もが口々に叫んでいた。
「魔力の……暴走か!?」
「逃げろ……凍る!! ここまで来るぞ!!」
雪が風に乗って、肌に触れた瞬間に霜が走り、金属をも一瞬で凍らせる異常さ。
「う、動かない……! 脚が……!!」
絶望が伝染していくように広がっていった。
その中心の空に立っていたのは、ディーズベルダだった。
彼女の髪は風に舞うこともなく、氷に包まれて音もなく固まりはじめていた。
腕も、指先も、肩までも。
まるで彼女自身が、氷で作られた人形になっていくように。
(止まらない……怒りが……)
彼女の視界は、真っ白な霧のような冷気に覆われていた。
ただ、兄が倒れているという事実。
そのことだけが、彼女の思考を支配していた。
──そして、その感情は“魔力”に直接影響を及ぼした。
もはや彼女は、自身の限界すら感じていない。
ゲルセニア側の戦場は、すでに“白”という概念に飲まれていた。
何があったか、誰がいたのか。
その全てが凍土の中に閉ざされ、動かぬ静寂だけが残っていた。
それを見た者は、誰もが確信していた。
──これはもう、“魔法”ではない。
“災厄”だ。
それは、美しさを通り越した、神の怒りにも似た氷の咆哮。
その姿を見た者は、口を開くこともできず、ただ凍りつくしかなかった。
ディーズベルダ・ルーンガルド。
その名は、この日を境に──“氷の女王”と囁かれるようになる。
──そこへ。
「ディズィ……!」
追いついたエンデクラウスが、凍てつく風の中を突き進み、防壁の上へと飛び上がる。
彼の火の魔力が、冷気とぶつかり合い、空間がバチバチと軋む音を立てる。
彼は、氷のように硬くなった彼女の肩を優しく抱き寄せると、
その体温でそっと彼女の身体を包み込んだ。
「ディズィ……お兄様は無事ですよ。
リセの魔力で溢れた火を、消火していただけだそうです」
その言葉は、静かに。けれど確かに、彼女の凍った心に届いた。
「……え? あ……」
ディーズベルダの瞳に、徐々に光が戻っていく。
「……やっちゃった……かも……」
凍りかけた表情が、微かに崩れ、頬に赤みが戻り始めた──その瞬間だった。
「……っ!? え、あああっ!!」
足元の氷の階段が、じゅう……っと音を立てて溶けはじめる。
エンデクラウスの火の魔力が、意図せず溶解を進めていたのだ。
気づいた時には、彼女の足元が消え──
「きゃーーーーーっ!!」
ふたりは一緒に、落下していた。
瞬時に、エンデクラウスは腕をまわし、ディーズベルダを抱きしめたまま、逆手で火の槍を生成。
防壁の縁に火の槍を突き立て、そこにぶら下がるような形で何とか体勢を維持する。
「……ディズィ、足元に階段をお願いしても?」
「え、えぇ……! ちょっと待って……!」
ディーズベルダは顔を真っ赤にしながらも、片手を下へ向け、
氷の魔力を慎重に放ち、繊細な階段を形作っていく。
「……できた……わ……」
階段は細く、儚げで、けれど確かな足場として地面まで続いていた。
「ありがとうございます。崩れる前に……急ぎましょう。」
エンデクラウスは慎重に足を掛けながらも、その声にいつもの余裕を取り戻していた。
──そして、ふたりはその氷の階段を駆け下りていく。




