表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

146/188

146.白き絶叫の災厄

ダックルス辺境地──戦場の最前線。


氷と土が入り混じった地面には、無数の魔法の痕が刻まれ、吹きすさぶ風の音のなかで、氷の魔力が鋭くきらめいていた。


そこに立っていたのは、ベインダル・アイスベルルク。

背筋はいつも通りまっすぐで、銀の長髪も乱れることなく……と言いたいところだったが──


その見事なオールバックは、少しだけほつれていた。

額には汗が滲み、肩が荒く上下している。


「……はぁ……っ……まだ……」


彼は氷を操り、広範囲の消火活動を必死に行っていた。


その魔力の繊細さと速さは、まさに職人技の域にあったが……明らかに、限界は近かった。


「一度……お休みになりませんこと?」


すぐ傍から、涼やかな声がかけられる。


紅いリボンを揺らすエンリセアが、唇をわずかに尖らせながら、彼の横顔をのぞき込んでいた。


「……この……馬鹿……が……」


ベインダルは、苦しげにそれだけ呟くと──

次の瞬間、前のめりに崩れるように倒れた。


「ちょっ!? ベインダル様!?」


エンリセアの顔色が一気に変わる。慌てて駆け寄り、倒れた彼の肩を支えながら、その顔色を覗き込む。


「脈が……早い。魔力切れ……っ」


と、その時だった。


遠くから、風を切るような足音が響く。


「お兄様っ!!」


戦地に似つかわしくない、けれど凛とした女性の声──


銀の髪をなびかせ、ディーズベルダが駆け込んできた。


その目には驚きと怒りが宿り、駆け寄る途中で倒れているベインダルを見つけるやいなや、唇がきゅっと引き結ばれる。


「お義姉……様?」


エンリセアは驚きに目を見張った。


(ま、まずいですわ……)


──次の瞬間。


「許せない……ッ」


ディーズベルダの声音が低く、怒気を含んでいた。


そのまま一言だけ残し、何の迷いもなく最前線へと足を踏み出す。


「ちょっ!? ちょっと待ってくださいましっ!! お義姉様!! 違いますの!! 敵にやられたわけでは……!」


慌てて手を伸ばすも、ディーズベルダは振り返らない。

足取りはまっすぐで、怒りと決意が背中から滲み出ていた。


「……っ、どうしましょう……」


エンリセアが小さくつぶやいた、そのとき。


「リセ、ベイルはどうした?」


鋭くも落ち着いた声が、戦場に響いた。


駆け込んできたのは、エンデクラウス。


すぐに状況を察した彼は、倒れている兄を一瞥しながら、息を切らすエンリセアに問いかける。


「それが……わたくしが、少し際限なくぶっ放してしまいまして……

ベインダル様がずっと消火活動をしてくださっていて……その、魔力が切れてしまったようでして……」


「……なるほど」


エンデクラウスの瞳が鋭く細まる。


「ですが、お義姉様がそれを“敵のせい”と勘違いしてしまったようで……ただ今、最前線へ……」


「そうか。わかった」


彼は短く頷くと、素早くポーチの中から小さな瓶を取り出した。


「リセ、魔力が漏れている。休憩所には入らず、今すぐ下がって休め」


「はい……。わかりましたわ」


エンリセアは、しおれたように肩を落としながらも素直に頷く。


──だが。


「いや、これを使え」


そう言って、エンデクラウスが彼女に投げ渡したのは──


「え……? これは……ボディークリーム……?」


紅いラベルのついた瓶を手に取るエンリセアが困惑する。


「魔力が抑えられる。しばらく塗って休めば、制御が戻る」


「そ、そうなんですの……? こんなものまであるのですね……」


呆然としながらも、それを受け取り、足早にその場を後にした。


──そして。


「ディズィ……待ってください!」


エンデクラウスは、鋭く風を切るように振り返ると、懐から黒革の手袋を取り出した。

それは燃えない特殊素材でできた、彼専用の戦闘用具。手早くそれをはめながら、

一気に地を蹴って、ディーズベルダの後を追って走り出した。


◇ ◆ ◇ ◆ ◇


「……許せない……」


ディーズベルダの瞳に、怒りと悲しみが渦を巻く。

彼女は迷いなく、両手を広げ、宙に魔力を放つ。


すると──


地面から“氷”がせり上がった。


一瞬で形を変えながら、滑らかな階段を作り出していく。

それはまるで、空へと続く神殿の階段のように、美しく、そして冷たい。


氷の階段を駆け上がった彼女は、防壁の上に立ち、風を切るように両腕を広げる。

天を仰ぎ、目を閉じたその瞬間──


空気が、変わった。


ひゅう……という低い風の音。

空が、光を閉ざしていく。


「……全てを終わらせる──」


ディーズベルダの囁きは、風にかき消されるほどの小さな声だった。

けれどその瞬間、世界が息を呑んだように、音が消えた。


彼女の周囲の空気が、音もなく揺れ始める。

見えない何かが、ゆっくりと圧縮されていくような違和感が、じわじわと広がっていく。


氷の粒子が、空気の中で静かに舞いはじめた。


そして──


「ッ……寒……い……?」


最前線に立っていた兵士のひとりが、突然、震える声でつぶやいた。


その声に気づく間もなく──


ゴォォォォォォッ……!!


大気が砕けた。

空が叫び、地が軋み、轟音と共にそれは始まった。


轟く吹雪。

それは“嵐”などという生易しい言葉では表現できなかった。


大陸の輪郭をなぞるように、白がすべてを覆い尽くしていく。

ゲルセニア帝国の地が、ほんの数秒で“雪と氷の墓標”と化していった。


その場にいた全員が、それを見た。


天から降る雪の一片ひとひらが、すべて“刃”のように鋭く、魔力を宿した凶器であることを。


「ば、化け物だ……っ」


「な、なにを……!? なんで、こっちまでっ……!!」


防壁付近にいたダックルス家の兵たちも、何が起きているのか理解できぬまま、次々と後方へ走り出す。


誰もが口々に叫んでいた。


「魔力の……暴走か!?」


「逃げろ……凍る!! ここまで来るぞ!!」


雪が風に乗って、肌に触れた瞬間に霜が走り、金属をも一瞬で凍らせる異常さ。


「う、動かない……! 脚が……!!」


絶望が伝染していくように広がっていった。


その中心の空に立っていたのは、ディーズベルダだった。


彼女の髪は風に舞うこともなく、氷に包まれて音もなく固まりはじめていた。

腕も、指先も、肩までも。

まるで彼女自身が、氷で作られた人形になっていくように。


(止まらない……怒りが……)


彼女の視界は、真っ白な霧のような冷気に覆われていた。


ただ、兄が倒れているという事実。

そのことだけが、彼女の思考を支配していた。


──そして、その感情は“魔力”に直接影響を及ぼした。


もはや彼女は、自身の限界すら感じていない。


ゲルセニア側の戦場は、すでに“白”という概念に飲まれていた。

何があったか、誰がいたのか。

その全てが凍土の中に閉ざされ、動かぬ静寂だけが残っていた。


それを見た者は、誰もが確信していた。


──これはもう、“魔法”ではない。


“災厄”だ。


それは、美しさを通り越した、神の怒りにも似た氷の咆哮。


その姿を見た者は、口を開くこともできず、ただ凍りつくしかなかった。


ディーズベルダ・ルーンガルド。

その名は、この日を境に──“氷の女王”と囁かれるようになる。


──そこへ。


「ディズィ……!」


追いついたエンデクラウスが、凍てつく風の中を突き進み、防壁の上へと飛び上がる。


彼の火の魔力が、冷気とぶつかり合い、空間がバチバチと軋む音を立てる。


彼は、氷のように硬くなった彼女の肩を優しく抱き寄せると、

その体温でそっと彼女の身体を包み込んだ。


「ディズィ……お兄様は無事ですよ。

リセの魔力で溢れた火を、消火していただけだそうです」


その言葉は、静かに。けれど確かに、彼女の凍った心に届いた。


「……え? あ……」


ディーズベルダの瞳に、徐々に光が戻っていく。


「……やっちゃった……かも……」


凍りかけた表情が、微かに崩れ、頬に赤みが戻り始めた──その瞬間だった。


「……っ!? え、あああっ!!」


足元の氷の階段が、じゅう……っと音を立てて溶けはじめる。

エンデクラウスの火の魔力が、意図せず溶解を進めていたのだ。


気づいた時には、彼女の足元が消え──


「きゃーーーーーっ!!」


ふたりは一緒に、落下していた。


瞬時に、エンデクラウスは腕をまわし、ディーズベルダを抱きしめたまま、逆手で火の槍を生成。


防壁の縁に火の槍を突き立て、そこにぶら下がるような形で何とか体勢を維持する。


「……ディズィ、足元に階段をお願いしても?」


「え、えぇ……! ちょっと待って……!」


ディーズベルダは顔を真っ赤にしながらも、片手を下へ向け、

氷の魔力を慎重に放ち、繊細な階段を形作っていく。


「……できた……わ……」


階段は細く、儚げで、けれど確かな足場として地面まで続いていた。


「ありがとうございます。崩れる前に……急ぎましょう。」


エンデクラウスは慎重に足を掛けながらも、その声にいつもの余裕を取り戻していた。


──そして、ふたりはその氷の階段を駆け下りていく。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ