145.告白の先にあるもの
──ふと、瞼がゆっくりと開いた。
ぼやけた視界に、天井の模様が浮かぶ。
見慣れない天井。けれど、不思議と嫌な感覚はなかった。
柔らかな陽の光がレース越しに差し込む部屋は、清潔で、どこか穏やかな空気に包まれていた。
そして、すぐ傍に──ぬくもりがある。
小さな手が、そっと自分の手を握っていた。
「べーりるーっ!」
ぱっと顔を上げると、クラウディスがにっこり笑いながら、心配そうにこちらを見ていた。
小さな手は驚くほどあたたかく、その指先から優しさがじんわりと伝わってくる。
「……クラウ……」
思わず、声が漏れた。
それだけで、胸の奥がじわりと熱を帯びる。
視線を横に移すと、部屋の一角──ベッドのすぐ近くの椅子に、教皇が膝の上にヴェルディアンを抱き、ちゅくちゅくと哺乳瓶を口に含ませていた。
「……おはようございます。お加減はいかがですか?」
教皇の声は、空気のように静かで、けれど芯のあるやさしさに満ちていた。
ベリルは、はっとして上体を起こしかけるが──その途中で、自分の内に重たい影が広がるのを感じた。
「あ……すみません……僕……その……」
何をどう謝るべきかわからない。
けれど、迷惑をかけたことだけは確かで。
言葉がつっかえたまま、視線がうつむく。
そんなベリルの顔を、ふわりとした感触が撫でた。
「いーこ、いーこ!」
クラウディスが、両手で優しく頭を撫でてくれていた。
まだ幼い手。けれどその動作は、どこまでも真剣で、まっすぐだった。
(こんな……僕に……)
自分の存在が赦されたような気がして、胸がじわじわと軋んだ。
「さて、ミルクもあげ終わりましたし──ジャスミンさん、お願いいたします」
教皇はそっと、ヴェルディアンを侍女へと預ける。
「クラウディスさん、そろそろスミールさんと給水へ行く時間ですよ」
その言葉に、クラウディスは元気に「はーい!」と答え、
くるりと手を振って部屋を駆け出していった。
扉が閉まる。
部屋の中には、静けさとともに──心地の良い風が、窓の隙間からふわりと吹き抜けた。
「……ベリルコートさん」
教皇の声が、再び落ち着いた空気の中に響いた。
「気に病んではいけませんよ。誰にでも、背負うものはあるのですから」
その言葉に、ベリルはきゅっと毛布の端を掴む。
すぐには答えられなかった。
胸の奥で、昨日の記憶がまた疼き始める。
目を伏せたまま、喉の奥から絞り出すように言葉が漏れた。
「………僕は………本当に……どうしようもない奴なんです……」
それは、癒えない痛みを自覚してしまった者の声。
誰かに責められるよりも、自分の声がいちばん、痛かった。
そして──その言葉を静かに受け止める教皇のまなざしが、
ほんのわずかに、陰を宿し始める。
けれど、その陰は決して冷たいものではなかった。
むしろ、そこにはどこまでも深く、澄んだ慈愛のようなものがあった。
ベリルは、その眼差しに、不思議と口を開いていた。
理由はわからない。
相手が教皇だからなのか。
それとも、最初からこの人になら、何を話してもいいと感じていたのか。
気づけば、喉の奥から、ぽつりぽつりと言葉がこぼれ出していた。
──過去のこと。
母に“役目”を押し付けられ、道具のように扱われた日々。
何度も吐いて、逃げたくて、それでも逃げられなかったこと。
妹に救われてからも、なお社交の場に出るたびに吐き気がすること。
まるで止まらなくなったかのように、ベリルは、胸の奥に溜め続けてきたものをひとつ残らず吐き出していった。
教皇は、ただ黙って聞いていた。
一言も挟まず、否定もせず、相槌もないのに、なぜか“聞いてくれている”と分かるような沈黙。
その沈黙が、ベリルには救いだった。
やがて──声がかすれ、すべてを吐き出したあとの沈黙の中で、ベリルはつぶやいた。
「こんな………こんな情けない自分が……誰かの親になっても良いのでしょうか……」
言ってしまったあと、胸がきゅうっと締めつけられた。
自分の口から出た“願い”にも似たその問いが、
あまりに愚かしくて、惨めで、恥ずかしくて──俯こうとしたそのとき。
教皇の低く静かな声が、ふわりと降りてきた。
「……なら、私はどうでしょうか」
「……え?」
ベリルが顔を上げると、教皇は窓際の光を背に、そっと微笑んでいた。
その微笑みには、どこか覚悟のようなものが滲んでいた。
「私は、かつて……最も愛した女性がいます。
名を……カトレア。現ゲルセニア帝国の“不死身の女帝”──カトレア・ゲルセニアです」
「……ッ」
ベリルの瞳が、大きく揺れた。
ゲルセニア帝国。
長年、ダックルス辺境地と争い続けている宿敵の国家。
その君主の名を、この男は──優しげに、懐かしむように口にした。
「私は、幼いカトレアを拾い、教会で育てました。
彼女は孤独でしたが、非常に聡明で、芯の強い子でした。
私は……その子を弟子とし、聖女として育て……そして、いつしか、愛してしまった」
声は穏やかだったが、その奥には、何層にも重なる“罪”が響いていた。
「彼女も、私の気持ちを受け入れてくれました。
……だからこそ、私は──彼女に、私と同じ“永遠の命”を与えてしまったのです」
ベリルは言葉を失った。
与えてしまった、というその言い方が、どれだけの重さを含んでいるか、言葉にせずとも伝わってきた。
「それじゃあ……あの国が……戦争を続けているのは……」
恐る恐る、そう問いかけると──
教皇は、わずかに目を伏せ、そして静かに言った。
「私への復讐。そして──」
長いまつ毛が揺れ、唇がほんの少しだけ震えた。
「私に……彼女の命を、終わらせてほしいからでしょうね」
その言葉は、まるで祈りのように静かで、そしてあまりに哀しかった。
その背中は、今まで見た誰よりも孤独で、
それでいて、ひどく優しく、今にも崩れてしまいそうだった。
ベリルは、ただ息を呑み、言葉もなく見つめていた。