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144.凍った記憶と、許されない美しさ

──夢を見ていた。

それは、遠い過去。

まだベリルコートが“氷の仮面”すら持たなかった、幼き日の記憶。


当時のアイスベルルク侯爵家は、貴族の威厳を語るには、あまりにも貧しかった。

屋敷の空気は冷たく、重く、どこかカビのような匂いが染みついていた。


父と母は顔を合わせれば口論か沈黙。

笑い声など、屋敷のどこにもなかった。


兄・ベインダルは末の妹──ディーズベルダにばかり目を向けていた。

無理もない。あの頃の彼女はまだ幼く、守られる存在だったから。

そして僕は──“手のかからない、美しい子ども”として、ただの“家の飾り”だった。


「さあ、ベリル。今日もあなたの役目よ」


母・デリシアス・アイスベルルクは、冷えた手で僕の手を握りしめ、上機嫌に言った。


その声は甘やかだったけれど、優しさはどこにもなかった。


母に引かれて向かった先は、今日もまた、貴族たちの集まる茶会。


豪奢なドレスをまとった貴婦人たちの視線が、一斉にこちらへと突き刺さる。


僕は、まるで舞台に引きずり出された人形のように、その場に立たされた。


「まぁ……宝石のように美しい子……」


「ぜひ、うちの娘の伴侶にどうかしら」


「いいえ、うちは金貨を払ってでも……!」


ざわめく声、息を呑む音、獲物を見る目。


まるで競り市だった。

値踏みするような目。欲望を隠さぬ声。

僕の価値は、“誰に高く売れるか”という尺度で測られていた。


体が、じっとりと汗ばむ。

それでも、作り笑いを浮かべなければならない。


母が見ているから。

微笑まなければ、帰ってから叱られる。


笑って、お辞儀して、相手の名を覚えて、言葉を返す。

その間も、貴婦人たちの視線が、舐めるように僕を追いかける。


──あの視線が、何よりも、気持ち悪かった。


どんな言葉より、どんな接触より──

あの“価値を測る目”が、僕の心をいちばん汚した。


その日のお相手は、十三歳の令嬢だった。

昨日は二十代の未婚令嬢、

その前の日は、誰よりも派手なドレスを纏った異国の大人の女性──


日々違う“付き合い”が用意され、

そのたびに、僕は丁寧に振る舞い、笑い、同じ質問に答える。


「趣味は? 特技は? 好きな花は?」


答えるたびに、相手の目が変わっていくのがわかった。

気に入ったものを見つけた獣のような、濡れた眼差しに。


一度のお茶や舞踏のたびに、アイスベルルク家には宝石や香水、希少な文書が届けられていった。

あれは“黙って差し出せ”という意味だ。


「礼として、これを」


その言葉すら、もう覚えていない。


──僕は、家のための“金を稼ぐ道具”だったんだ。


いつからか、そう思うようになっていた。


どれほど綺麗な服を着せられても、どれほど上品に笑っても、

そこに“ベリルコート”という一人の人間はいなかった。


与えられた言葉、着せられた装い、作られた表情。

それらをひとつひとつ丁寧にこなすたび、

心のどこかで、ひびが入り、また一片──音を立てて剥がれていくような感覚があった。


とある帰り道だった。


夕陽が屋敷の窓を焼き、冷たい風が廊下を吹き抜ける中。

僕は、とうとう耐えきれずに立ち止まった。


「は……母上……僕は……もう、行きたくありません」


声が震えていた。

両手はぎゅっと握りしめ、足元はふらついていた。

それでも、勇気を振り絞って絞り出した言葉だった。


──けれど、母は。


「わがまま言わないの」


その瞬間、頬に乾いた衝撃が走った。

母の手のひらが、容赦なく僕を打った。


「ただで食事を食べさせ、兄妹よりも豪華な服を与えてあげているのよ?

少しくらい我慢なさい。それに、女性とデートなんて、優雅で素敵じゃない」


彼女は平然と、そう言った。


(優雅……?)


その声を聞いた瞬間、心のどこかが──凍った。


僕にとって、あれが“優雅”なものだと?

どれだけの笑顔の裏で、吐き気を堪えていたと思っているんだ。


視線はいやらしく、言葉は甘ったるく。

触れられたくもない手が、何気なく肩や髪に触れてくる。


それはまるで──獲物を値踏みする、捕食者のような目だった。


時には、十歳以上も年上の貴族男性と、“お茶”という名の品評会を開かれたこともある。

笑顔を保ちながら、ひたすら時間が過ぎるのを祈るしかなかった。


(誰か……誰か、助けて……)


声にならない叫びが、胸の中で何度も反響していた。


でも──誰も気づいてはくれなかった。

兄も、父も、母も。

あの家の中で、僕は“ただの価値ある商品”でしかなかった。


──けれど。


その地獄のような日々が終わったのは、ディーズベルダのおかげだった。


まだ幼かった妹が、突然莫大な収入を得て、屋敷の空気を一変させた。


その日。

僕は疲れたまま屋敷へ戻ると、彼女が駆け寄ってきた。


そして──あの、どこまでもまっすぐな瞳で、言ったのだ。


「ベリルお兄様の分も、わたしが稼ぐから、もう問題ないわ。

好きなだけ家にいて、自由にしていればいいの。

社交だって行かなくていい。……もう、大丈夫だよ、お兄様」


その言葉に──僕は、全身が解けていくのを感じた。


張り詰めていたものが、ふっと緩んでいく。

涙が出そうになった。けれど、それはこらえた。

ただ、静かに、うなずいた。


(……ありがとう、ディズィ)


そのときの言葉は、いまだに胸の中に刻まれている。


あれ以来、僕はようやく自由を手に入れた。

けれど──それがあまりにも眩しくて、

いつしか“何か返したい”と思うようになった。


だから、成人してからは少しずつ、社交の場へ足を踏み入れてみた。


──だが。


過去の記憶は、想像よりもずっと深く、重かった。


社交会場に足を踏み入れるたび、背筋を凍るような冷気が這い上がる。

人々の視線が、一斉にこちらを向く。微笑みをたたえた顔の奥に──欲望と期待が渦巻いているのが、はっきりと分かった。


(見られている……また僕を…そんな目で…)


鼓動が速くなる。呼吸が浅くなる。手のひらが汗で湿り、喉の奥が締めつけられるようだった。


それでも、笑顔を作らなければならなかった。


令嬢たちに囲まれ、丁寧に言葉を交わす。

整った振る舞いを求められ、仕草ひとつで“好印象”を残さなければいけない。


──舞踏の音楽が始まる。


ドレスの裾が揺れ、光の中で男女が軽やかに踊るなか、

僕は手を差し出し、令嬢の手を取り、完璧な笑顔を貼りつけた。


ステップを刻むたび、胃の底が冷たく軋む。

距離の近さ、熱を帯びた視線、甘ったるい香水の匂い──すべてが、嫌悪感となって喉元にせり上がってくる。


(……やめたい、逃げたい……)


どうにか曲が終わるのを待ち、手を離すと同時に、礼もそこそこに踵を返す。


音楽が鳴り続けるなか、控え室の扉を押し開け、奥の壁にもたれかかる。


その瞬間だった。


「……っ――!」


堪えきれなかった。


喉の奥から、こみ上げていたものが一気に逆流し、

ベリルはその場に膝をついて吐いた。

背中が痙攣し、体の奥から絞り出すような苦痛が、全身を走った。


胃の中は空っぽのはずなのに、止まらなかった。

苦しくて、つらくて、涙が自然と滲んでくる。


手は震え、吐息は荒れ、冷や汗が首筋を伝って背中を濡らしていった。


何も出なくなったあとも、しばらくその場を動けなかった。

ただ、壁にもたれ、息をするだけで必死だった。


──それが、何度も何度も、繰り返された。


どれだけ挑戦しても、克服したくても、

心と体は、素直に言うことを聞いてくれなかった。


(なんて……なんて不甲斐ない兄なんだ……)


誰よりも優しくしてくれた妹に、情けない姿ばかり見せてしまっている。


ベッドに入ってからも、思い出すのは、あのときのディーズベルダの言葉だった。


『もう、大丈夫だよ──お兄様』


……なのに。


僕は、大丈夫じゃなかった。

まだ、何ひとつ──乗り越えられていなかった。


「……ごめんね、ディズィ……。僕は、やっぱり……弱いよ……」


毎晩、天井に向かってぽつりとこぼすその一言が、

誰の言葉より、自分の胸を深く傷つけていた。


──繊細な氷のように整えられた外見の裏で。


その心は、今もなお、深い雪の中に埋もれたままだった。

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